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年表_物理学/化学_17-SH


■17世紀後半(1651~1700)

西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1651 ジョヴァンニ・リッチオリ イタリア

書物『アルマゲスト・ノヴァ』

イエズス会はティコの折衷説を採用

イエズス会の天文学者リッチオリは、コペルニクスの地動説(太陽中心説)に反対し、ティコの折衷説を推奨する『アルマゲスト・ノヴァ(Almagestum novum)』を著した。その扉絵を見れば、3つ(天動説・地動説・折衷説)に対するイエズス会の見解が一目瞭然となる。

扉絵には、右側に立つ天の女神ウラニアが、右手に持つ天秤でコペルニクス地動説とティコ折衷説を象った円盤を吊るす姿が描かれる。天秤はティコ折衷説の円盤に傾き、イエズス会が採用するティコ折衷説を信憑性が高い説として認めていたことが伺える。一方で、天の女神ウラニアの足元には、アリストテレス=プトレマイオスの天動説が描かれた小さな円盤が立てかけられている。

※17-18世紀にイエズス会士は世界各地に派遣され、キリスト教を布教するとともに、西洋の天文学を始めとする自然科学の知識を齎した。支那に到来したイエズス会士はティコの折衷説に基づく天文体系を齎し、皇帝にも評価され、宮廷で天文学者として活動することが許されるようになった。

1652        
1653        
1654 オットー・フォン・ゲーリケ ドイツ

マグデブルグ の半球実験

※真空実験、大気圧の強さ

人々が大気圧の強さを実感した最初の実験。発明した真空ポンプ(1650年)で空気を排気した接合銅製半球を引き離す実験を実施。金属球を左右から馬8頭ずつで引っ張ることで、爆発音とともに半球に引き剥がされた。

計算上、直径30cmの半球は場合、左右でそれぞれ0.7tで引っ張れば大気圧に打ち勝ち引き剥がすことができる。左右8頭ずつで馬1頭当たり90kg程度の力が必要。

1655 クリスティアーン・ホイヘンス オランダ 土星環衛星タイタン

ホイヘンスはレンズ研磨を工夫し改良した望遠鏡を用いて土星を観察した。土星の環をはっきりと確認し、土星の衛星タイタンを発見した。1610年にガリレオが彼の望遠鏡で土星の奇妙な形を認識していたが、環ではなく、三つの星が並んでいるように見えるほどの解像度であった。

西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1656        
1657 クリスティアーン・ホイヘンス オランダ 振り子時計

「振り子の等時性」と「ばね運動の歯車時計」を組み合わせて時計を改良し、振り子時計を発明した。

1658 ピエール・ド・フェルマー フランス

フェルマーの原理

※幾何光学の基礎

フェルマーの原理とは、光は2点間を最短時間で進むという意味である。この原理に基づいて、幾何光学の基礎である光の直進、屈折、反射の法則を導くことができる。
1659 クリスティアーン・ホイヘンス オランダ

等時曲線問題を解く

※サイクロイド曲線の発見

振り子の等時性(ガリレオ/1583年)は、振り子の振幅が大きくなると成り立たなくなる。つまり単なる円軌道では等時性は不完全で、真の等時性を持つ軌道はどういう形をしているのか、という等時(降下)曲線問題が浮上していた。この等時曲線問題を解いたのが既に振り子時計(ホイヘンス/1657年)も開発していたホイヘンスであり、サイクロイド曲線が発見される。

等時降下曲線(トートクロンカーブ)とは、物体が一様重力場のもとでその曲線上のどの地点(出発点)から転がしても最下点に達するまでの時間が同じになるような曲線。

1660 フランシスコ・グリマルディ イタリア 光の回折現象  
1660 ロバート・フック イギリス

弾性の法則(フックの法則)

 
西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1661    

コペルニクス著『天球回転論』

が禁書指定に

太陽中心説を提唱するコペルニクス著『天球回転論』が禁書指定。禁書解禁は1822年。
1661 ピエール・ド・フェルマー フランス 最小時間の原理(フェルマーの原理)

光の直進についてフェルマーは「自然は常に最短の道を歩む」と表現した。光は始点から終点までの道筋として時間が最小になる経路を常に選ぶ、という原理である。最小時間の原理あるいはフェルマーの原理と呼ばれる。反射や屈折の法則は、この最小時間の原理を適用して導出される。

1662     ロンドン王立協会の創設 ロンドンで作られた民間の科学に関する世界最古の学会(科学サークル)。創立時のメンバーには、気体の法則のロバート・ボイルや、バネの法則のロバード・フックらがいた。
1662 ロバート・ボイル アイルランド ボイルの法則

温度(T)一定下で、圧力(P)と体積(V)の積が常に一定になる関係式(PV=一定)を発見。

※さらに体積と温度の関係式(シャルルの法則:V=aT)は、熱気球などの発明に伴い125年後の1787年にシャルルにより発見する。

1663 オットー・フォン・ゲーリケ ドイツ

摩擦起電機(静電発電機)

※静電気研究の始まり

硫黄の回転球を毛や綿毛で摩擦し、静電気を発生させる摩擦起電機を作成。ゲーリケはこの力を電気というよりは"世界力"と呼んだ。静電気を使った研究が可能になる。

なお動電気での研究は、電池の発明(アレッサンドロ・ボルタ/1799年)以降である。

1665   イギリス

腺ペスト、流行

ロンドンの大疫病

1665年春、イギリスのロンドンで腺ペストが流行、猖獗(ショウケツ)を極める。9月初めケンブリッジでは公的集会が禁じられた。ニュートンが故郷ウールスソープに帰省する背景となる。

1665 ロンドン王立協会 イギリス 哲学会報を創刊

ロンドン王立協会の学術雑誌が創刊。会員の情報交換、先取権確保の方法として利用。

1665 ロバート・フック イギリス

書物『ミクログラフィア

※顕微鏡図譜 

顕微鏡による植物、鉱物、昆虫などの観察記録集。

コルクの無数の小部屋(セル)も発見。

1665 アイザック・ニュートン イギリス

ニュートンの驚異の2年間

※重要な業績の始まり

ロンドン大疫病に伴い、ニュートンのいるケンブリッジ大学も1665年夏から約2年間閉鎖。ニュートンは故郷ウールスソープに帰省し、1667年4月の復学まで自由な思索の日々を過ごした。この時期はニュートンにとって最高の創造期とされ、二項定理、微積分法(流率法と逆流率法)、色彩理論(プリズムによる光のスペクトル分析)、ケプラーの法則(惑星の公転運動の規則)の証明、万有引力の法則(重力の法則)などの着想を得た。

西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1666        
1666   イギリス

ロンドン大火、発生

ロンドン市中を燃やし尽くす大火が発生。

1666 アイザック・ニュートン イギリス

プリズムの分光実験

ニュートンはプリズムを用いて白色光の分離(分光)に成功。色ごとの屈折率の違いにより、白色光を分解できることを発見。
1666 ロバート・フック イギリス

講演『重力について』

フックは王立協会での講演で、重力はあらゆる天体に作用し、距離に比例して小さくなること、重力がなければ物体は直進し続ける(慣性の法則)と説明。後にニュートンと重力の距離の逆2乗則の発見の先取権で争うが、ニュートンの方が定量的な数式で示された。

1667

アイザック・ニュートン イギリス

プリズムの分光実験

※光の放射(粒子)説の提唱

ニュートンはプリズムの分光実験を続け、分光後の単色光はプリズムを通してもそれ以上分散しないこと、プリズムで分散した光は凸レンズで集光すると白色光に再構築できることを実験的に確かめた。

1668 アイザック・ニュートン イギリス

反射望遠鏡の発明

ニュートン式望遠鏡

腺ペストも下火となり、ケンブリッジ大学に戻ったニュートンはフェロー(特別研究員)に指名され、100ポンド(ひと家族が1年以上暮らせる金額)の年金が支給された。この年金で道具や材料を買い、高精度の反射望遠鏡を自作し始めた。ガリレオやケプラーが製作した望遠鏡は屈折望遠鏡のため色収差が生じる。一方ニュートンは、鏡の反射を利用した色収差の生じない反射望遠鏡を製作。口径1インチ、長さ6インチで倍率は40倍ほどであった。著書『光学』(1704年)でニュートンは、「私が望遠鏡を作った時、ロンドンの職人が模倣しようとした。しかし研磨法が私のものと違ったので、私が達した域には及ばなかった」と述懐。ニュートンのみならずコペルニクス、ブラーエ、ガリレオなど当時の優れた物理学者は、機器を自前で拵える技量を備えた職人でもあった。

1669   イタリア

エトナ火山、噴火

 
1669

ベアテルゼン

(エラスムス・バルトリナス)

デンマーク 透明方解石(氷州石)の複屈折

1668年、デンマークの探検隊はデンマーク領アイスランドから珍しい品物を多数持ち帰った。その中には透明方解石(カルサイト)もあった。通常、方解石は白くて不透明であるが、アイスランド産のものは透明できれいだった。医師ベアテルゼン(英語ではバルトリン)は透明方解石を調べると、それを通して見た文字が二重に分かれて見える性質に気づいた。また回転させると二重に見えた文字の一方だけが回転するように見えた。二つの屈折光のうち一方は通常の屈折の法則(スネルの法則)により屈折する常光線で、他方は屈折の法則に従わない異常光線であることが調べられた。

この複屈折の発見を契機に、光の本質を研究しようという機運が一気に高まる。フランスの科学アカデミーも複屈折を数学的に説明する論文を懸賞金つきで募集したほどであった。

※透明方解石は、アイスランドの石と呼ばれるようになり、日本でも氷州石と呼ばれた。

1669 ヘニッヒ・ブラント ドイツ

リン(P)の発見

※実験による初の元素発見

錬金術師・化学者ブラントは、銀を金に変える液体が尿だと信じて実験を行い、人の尿からリン(P)を単離・発見。人類史上初の実験による元素の発見となった。以後、欧州では自然界から元素を見出す探索が始まる。

1669 ヨハン・ヨアヒム・ベッヒャー ドイツ

書物『地中の物理』

フロギストン説

本書にて"燃える土"という元素を導入し、物質の燃焼現象を説明。後にベッヒャーの説はフロギストン説と呼ばれる。

1670        
西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1671 アイザック・ニュートン イギリス

論文『流率法と無限級数

微積分法

微積分法(流率法と逆流率法)。

1671 ロバート・ボイル イギリス

水素

ボイルは鉄を希硫酸に溶かして、燃える気体(水素)が発生することを確認。

※その後1766年にキャベンディッシュが初めて水素ガスを単体分離。1789年にラヴォアジエがhydrogeneと命名。

1672 アイザック・ニュートン イギリス

論文『光と色の新理論

白色光の正体

光の粒子説

プリズム実験から、光は屈折率の異なる様々な単色光が混ざった結果として白色光に見えると説明。また単色光は反射・屈折などによる方法では変えられないと指摘。

1672 ジョヴァンニ・カッシーニ イタリア

太陽視差

 
1673        
1674        
1675 オーレ・レーマー デンマーク

光速度の有限性
※光速度の最初の測定

(秒速214300km)

天文学者レーマーは木星の第一衛星イオを観察し、その公転周期が約42.5時間だと突き止めた。数ヵ月後に再び測定すると、地球から観測される木星の衛星食の時刻が徐々に遅れることに気付く。(太陽に対する)公転運動により地球と木星との相対位置が変わり、光速度の有限性が炙り出された…とレーマーは考えた。この前提で光速度を約22万km/sと導出。実際の光速度より遅いが、当時の地球の公転軌道直径は約2.77億kmと実際(約2.99億km)より小さい推定値であったため。光速度が有限性の議論に終止符を打ったレーマーの功績は高く、以後、光速度の測定精度へ議論は進展。

※地球と太陽の距離(1天文単位,地球の公転軌道の半径)は約1.5億kmで光は約500秒かかり、地球の公転軌道直径はその2倍の約3億kmなので光は約1000秒かかる。

1675

ジョヴァンニ・カッシーニ イタリア

カッシーニの間隙

土星の環の間に隙間が存在することを確認。

1675 チャールズ2世 イギリス

グリニッジ天文台、創設

 
西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1676 ロバート・フック イギリス フックの法則 フックは1676年にフックの法則を暗号(ceiiinosssttuv)で発表。1678年に実験的証明を刊行するときに暗号の解答(uttensio sic vis - 力は伸びに比例する)を発表。
1677 パリ王立科学アカデミー パリ

音速の測定

銃声と発煙から人間の反射神経を頼り、音速(秒速356m)を測定。

1677 クリスティアーン・ホイヘンス オランダ

複屈折の説明

透明方解石で知られる複屈折の説明が課題となっていた。ホイヘンスは非等方性の結晶ではホイヘンスの原理に従う素元波の形が基本的な球面波に加え、別に楕円波が発生する…という仮説を立て、複屈折の説明に成功。

※楕円波の仮説は光の伝播速度が結晶中の進む方向で異なることを示唆し、本質的には偏光(エティエンヌ・ルイ・マリュス/1808年)の原因にも言及する。

1678 クリスティアーン・ホイヘンス オランダ

ホイヘンスの原理

光の波動説の発展・拡張

エーテル粒子の性質に言及

ルネ・デカルトやロバート・フックを代表する初期の光の波動説は、ホイヘンスにより大きく発展・拡張される。ホイヘンスは二次波(素元波)源による仮説(ホイヘンスの原理)を用い、波の伝播により光の直進(光線同士は衝突せず互いに通り過ぎる)・反射・屈折・回折を説明。ホイヘンスは、ルネ・デカルトのエーテル説(哲学原理/1644年)の立場から真空中での光の直進性を説明できない波動説の欠点を補った。また要請されるエーテル(光の媒質粒子)は、極めて小さく硬い弾性体であると主張。但しルネ・デカルトは光は瞬時に伝わると考えたが、光速度の有限性を示す観測結果(1675年/オーレ・レーマー)に配慮してか、ホイヘンスは光の伝播には時間を要するとした。ホイヘンスの原理は、後に出版される著書『光についての論考』(1690年)で詳説される。またの後にフレネルにより波動説の立場から整理され、光の波動論として揺るぎないものとなる。

1679        
1680        
西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1681        
1682    

ハレー彗星、出現

大彗星(後のハレー彗星)の出現。エドモンド・ハレーはこの大彗星を観測し、その正体を究明。過去の天文記録を取り寄せて調べ、1456年、1531年、1607年にも大彗星が現われていること、この度の大彗星の軌道が過去3回の軌道と類似することを確認。1705年にハレーは、ハレー彗星が周期彗星であることを発表。

1683        
1684 ゴットフリート・ライプニッツ ドイツ

微積分法

ライプニッツは1676年頃に微積分法を独立で発見。論文発表は1684年。

1684 アイザック・ニュートン イギリス

論考『回転する物体の運動』

惑星の楕円軌道

ケプラーの法則の導出

1684年8月、エドモンド・ハレーは数学の才が高いと評判のニュートンに次の質問をぶつけた。「太陽からの距離の逆二乗に比例する力を受けると仮定すると、惑星はどのような曲線の軌道を描くか」という質問に、ニュートンは楕円軌道だと即答。即答した理由は既に計算済みとし、後日、その計算内容を論考『回転している物体の運動について』としてハレーに送った。そこには質問に対する解答のみならず、ケプラーの法則が証明されており、ハレーは高く評価。ハレーはニュートンにその成果を書物にまとめて発表するように強く働き掛けた。その出版費用までハレーが肩代わりして、1687年に刊行されるのが『プリンキピア』である。

1685        
西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1686 ゴットフリート・ライプニッツ ドイツ

活力(mv^2)の保存

 
1686 ベルナール・フォントネル フランス

書物『世界の複数性についての対話

宇宙論の啓蒙書。本書にて、全ての恒星の周りには惑星が回り、住人(地球外知的生命)がいると説いた。 

1687 アイザック・ニュートン イギリス

書物『プリンキピア』第一版

運動の三法則

①慣性の法則

②運動方程式(F=ma)

③作用反作用の法則

万有引力の法則(逆二乗の法則)

天界と地上界の運動法則を統合

①書物『プリンキピア』執筆・発刊の背景

書物『プリンキピア(自然哲学の数学的諸原理)』(全三巻)の刊行理由は、友人の天文学者エドモンド・ハレーがニュートンの学術的成果を世に送り出すことを強く求めたため(1684年)。学問の世界ではラテン語が共通語であったため、本書はラテン語で書かれ、表題の"原理"に当たる部分のラテン語をとって『プリンキピア』(英語のプリンシパル)と略される。また本書のタイトルはデカルトの『哲学原理』(1644年)を念頭において決められたと言われている。

②ニュートン力学誕生の時代的な背景

ニュートン力学誕生に至る重要な発見はケプラーの法則(1609年/1619年)である。天界の惑星運動は古代より信じられてきた等速円運動ではなく、非等速楕円運動であるという事実を説明する力学が求められた。またデカルトの「同一の運動法則が全宇宙を貫いて支配する」という宇宙観も天壌の運動法則を統一するというニュートンの考え方に影響を与えたと見ている。

③書物『プリンキピア』の章構成と表現

『プリンキピア』の冒頭は「公理あるいは運動の法則」と題し、扱う物理量の定義(絶対時間・絶対空間の概念など)と運動の三法則が掲載される。

運動の三法則の中で①慣性の法則はルネ・デカルト書物『哲学原理』(1644年)に記載され、②運動方程式(F=mα)において力の働かない場合(F=0)に相当する。また②運動方程式は質量(kg)と重量(力,kgf)を明確に区別した。③作用反作用の法則。

『プリンキピア』の本論は、「物体の運動」「抵抗を及ぼす媒質内での物体の運動」「世界体系」の3篇から構成。第1編「物体の運動」ではケプラーの法則及び万有引力の法則が証明される。第3篇「世界体系」ではアリストテレス的世界観に代わる世界体系を確立する。なお書物の記述は現在の教科書のように微積分や方程式を使ったものではなく、図形を使った幾何学的なものである。

④万有引力の法則の導出

「同一の運動法則が全宇宙を貫いて支配する」と考えたデカルトの同一の運動法則の具体的な形をニュートンは万有引力の法則として提示した。

ニュートンは月に働く重力を算定し、地上の物体に働く重力の1/4000程度と見積もった。また月の運行の観測から、地球から月までの距離は地球の半径の60倍と計算し、万有引力の逆二乗則を発見した。ここからニュートンは"惑星が楕円軌道を描く原因となる引力の在り方"を計算し、その結果、逆二乗則しかありえないこをと示した。

※なお"逆二乗則から惑星の運動軌道を導こう"とすれば、楕円軌道以外に双曲線軌道なども生まれ、説明するのは困難となる。

 

⑤天壌の運動法則の統一

万有引力の法則では、これまで地上界(リンゴが木から落ちる)と天界(惑星の公転)は別々の法則で支配されているという考え方だったが、万有引力という同じ法則のもとで統一的に説明できることを明らかにした。つまり地上からリンゴを十分な速度で投げれば、月と同様に地球の周りを回るということ。

※万有引力定数の測定は1798年のキャベンディッシュにより、『プリンキピア』発刊の100年以上経過している。万有引力説はこの万有引力定数の測定成功によって実証された。

⑥万有引力の起源

 

ニュートンは万有引力の作用の説明はしているが、その起こる原因は説明していない。万有引力の存在を認められないデカルト学派の学者は「媒体が存在しないのにどうやって引力は伝わるのか」「魔術でもないのに、離れた物質に力が働くわけがない」と批判した。ニュートンの立場は実験や観測から原理を導き出すもので、万有引力の起源について憶測することではない…といったスタンスだった。ニュートン曰く「私は仮説を作らない」という有名な言葉を残している。説明のつかない部分は神の力に帰していた節もある。

⑦揺らぐ天界の在り方

ルネサンス以前、天界と地上界では異なる法則が支配し、天界は美しく永遠不滅で、地上は壊れやすく穢れた不完全なものという見方であった。ケプラーの第一法則(楕円軌道の法則)や、ガリレオの天体観測などから次第に天界の不完全性が露見され始め、実は天界と地上界は差し変わらないのではないか…という考えが芽生えた。ニュートン力学は、異なる法則により支配されるという天界と地上の区別を取り払い、一つの法則で統一して説明できることを示した。

またニュートン力学により、ケプラーの惑星の三法則(1609年,1619年)やガリレオの落下の法則を純粋に数学的な導出に成功した。またハレー彗星が回帰する年や未知の惑星の軌道を予測するなどニュートン力学は成果を上げ続けた。

⑧世界初の人工衛星

ニュートンは書物で「もしモノを高速で打ち出せば、その速度が速くなるほど地上の着地点は遠のく。そしてある一定の速度を超えると、着地せずに地球を周回する」と述べた。約270年後、1957年10月4日、ソ連のコロリョフは世界初の人工衛星スプートニクを打上げてニュートンの理屈は実証された。

1687 アイザック・ニュートン イギリス

書物『プリンキピア第一版

地球の扁平率の計算

緯度と重力の強さの計算

『プリンキピア』の第三巻「世界の体系」の命題18~20で、地球の扁平率を求め、地上の緯度における重力の強さの関係を計算した。

命題18では、惑星が自転すると重力が全ての方向に均等なので惑星は球形になるが、自転をすれば遠心力により赤道方向の直径が長くなると指摘。実際、(自転周期が10時間弱と地球より短い)木星の直径は両極間より東西間より短いことが観測されていることをニュートンは記している。

命題19では、地球の赤道方向の直径と両極間の直径の比率は230対229、つまり扁平率は1/230と計算した。

命題20では、地球を回転楕円体とみなす場合、赤道から極方向に移動するにつれて重力は増加し、その増加分は緯度θ(赤道がθ=0°、極がθ=90°)の正弦の二乗(sin^2θ)に比例すると結論付けた。

【地球の扁平率の実測】

1735年、フランスのルイ15世の治世下、フランス科学アカデミーは地球の正確な形を決定する計画を立てた。1736年には北極圏での測量と、フランスでの測量の比較から、ニュートンによる地球の扁平率の理論値が実測値に近いことを実証した。

1688        
1689        
1690 クリスティアーン・ホイヘンス オランダ

書物『光学論』

ホイヘンスは光の波動説の立場から、光の諸現象の研究成果を『光学論』として世に出した。ここでは透明方解石(氷州石)の複屈折の研究もあり、また複屈折というのは多くの透明な結晶にも見られることも報告した。

西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1691        
1695        
西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1696        
1698 クリスティアーン・ホイヘンス オランダ

書物『宇宙論』

書物の中で「地球以外の他の惑星上に生命が存在する可能性がある」と論じる。

1700 ギヨーム・アモントン フランス

(気体の)アモントンの法則

※定積下の圧力と温度の関係

ゲイ・リュサックの法則(第2法則)

アモントンは温度計を用いて、定積下の圧力と温度の比例関係を発見した。但し、温度計の目盛りが確立されていない時代であるため、シャルルの法則のような定量的な発見ではなかった。

なおアモントンの法則を、ゲイ・リュサックの法則(第2法則)として記述する著書も存在する。