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年表_物理学/化学_17-FH


■17世紀前半(1601~1650)

西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1601 ティコ・ブラーエ デンマーク ブラーエ、逝去。

ティコは望遠鏡発明以前の最も偉大な天文観測家であり、肉眼観測では最高精度の膨大な観測データを残した。病気で臨終のティコは、火星観察記録の整理をケプラーに遺言委託した。「観測結果をどうか無駄にしないでくれ」とケプラーに懇願したとされる。

ティコの後任としてケプラーは宮廷天文官となる。ティコの遺産である火星観測データ(16年分の記録)を解析し、ケプラーは惑星運動の法則(1605年)を導いた。

【ティコの宇宙観】

ティコの宇宙観は天動説と地動説の折衷案。宇宙の中心を地球とし、太陽が地球を公転する点は天動説であるが、地球以外の惑星は太陽を中心に回るという点では地動説(太陽中心説)の考え。一方、後任者のケプラーは地動説の立場を取った。

1602        
1603 徳川家康 日本 江戸幕府、成立  
1604 ヨハネス・ケプラー ドイツ

超新星(SN1604)の観測

ケプラーはへびつかい座に出現した超新星(SN1604,ケプラーの超新星)を観測。現在までに銀河系(天の川銀河)内で観測された最新の超新星爆発である。

1604 ガリレオ・ガリレイ イタリア

落体の法則

1604年頃にはガリレオは落体の法則を定量的に発見し、アリストテレスの自然観を否定した。

落体の第1法則:真空中では自由落下する全ての物体は同じ速度で落下する。

落体の第2法則:自由落下の落下速度は落下時間に比例し、落下距離は落下時間の2乗に比例する。

アリストテレスは重い物体の方が軽い物体よりも速く落下するとしたが、その常識を実験的に否定し、軽い物体が遅く落ちるのは空気抵抗であると指摘。詳細は、宗教裁判後に著した書物『新科学対話』(1638年)にて記される。

1605 ヨハネス・ケプラー ドイツ

書物「ファブリチウス宛書簡」

惑星の楕円軌道

ケプラーは火星の正確な軌道を解明するべく膨大な観測データから、火星が楕円軌道であることを割り出した。古代から地上は不完全である一方で天界は完全であり、惑星は円軌道を描くと信じられてきたことから、ケプラーは楕円軌道という観測結果にぞっとした(ファブリチウス宛書簡/1605年)。しかし、一旦、惑星の軌道を楕円軌道と仮定すると、軌道周期や運航速度についてもシンプルで美しい法則を見出すことができた。

「自分ではそれと気づかぬまま私はずっと答えを眺めていたのです。今ではこの問題を明快かつ優雅、真実なる法則として、次のように記述できますー諸惑星は太陽を一方の焦点とする楕円軌道を運行する」(ファブリチウス宛書簡/1605年)

西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ

1606

       

1607

    ハレー彗星、出現 後のハレー彗星が76年の周期で出現。彗星は一度現れると二度と現れないと思われていたが、1705年にエドモンド・ハレーはハレー彗星が周期衛星であることを発表する。
1608 ハンス・リッペルハイ オランダ

望遠鏡の特許申請

複式顕微鏡を発明(1590年)したヤンセン父子の近所に住み、同じく眼鏡職人のリッペルハイは実用的な最初の望遠鏡を製作し、1608年に特許を申請。この望遠鏡で肉眼の3倍遠くを観察できた。望遠鏡の発明は、リッペルハイと同時期に他にも主張する人がいたが、望遠鏡らしきものが作られた記録はそれ以前の16世紀、15世紀にも遡る。レンズ自体は眼鏡として以前から使われ、望遠鏡は基本的にレンズ2枚を組み合わせであるため、誰かしらが望遠鏡の原理に気づいても不思議ではない。そうはいっても、リッペルハイの発明により望遠鏡が広く知られ、欧州各地で望遠鏡が作られ始める端緒となった。

1609 ヨハネス・ケプラー ドイツ

書物『新天文学』

(ラテン語:アストロノミア・ノヴァ)

ケプラーの第0法則

ケプラーの第1法則

ケプラーの第2法則

ティコ・ブラーエと異なり地動説(太陽中心説)を信じたケプラーが、それを証明する上で注目した惑星はブラーエの観測データ(16年間分)の蓄積があった火星である。ティコ・ブラーエの信頼できる精密な観測記録をもとに太陽・地球・火星の三角形の動きの変化を調べたところ、太陽と火星の距離は一定でないこと(円軌道でないこと)、火星は太陽に近づくと速く、遠ざかると遅く動くことが分かった。さらに他の惑星も同様の運動の特徴を示すことが明らかとなり、ケプラーは惑星の運動に関する以下2つの経験則を導いた。

法則①:全ての惑星軌道は太陽を焦点の一つとする楕円軌道である(楕円軌道の法則)

法則②:太陽と惑星を結ぶ線分が同じ時間内に描く扇形の面積は一定である(面積速度一定の法則)

なお第0法則とは、「太陽系の惑星の描く軌道はほぼ同じ平面上にある」というものである。

天動説か地動説かに関係なく共通の前提となっていた「惑星は等速円運動をする」という固定観念を打ち砕く結果となった。古代より天界では等速円運動は自然に生じる運動と見なされ、そこに力学的な思索は及ばなかった。しかし等速円運動が否定されたため、なぜそのように運動するのかという力学的探求の端緒となった。

※さらに10年後、書物『宇宙の調和』を著し、ケプラーの第1、第2法則を完全なものとし、第3法則も追加する。

【揺らぐ天界の完全性】

ケプラーが最初に惑星の楕円軌道を発見したのは火星の軌道に対してだった(1605年)。天界は完全であり、古代から惑星は円軌道を描くと信じられていた中での楕円軌道の発見はケプラーを失望させた。しかし様々な惑星を楕円軌道を描くと仮定してやれば、優雅に美しく天体運動を説明できることが分かり、法則として位置付けた。

【解析的に楕円軌道を描く観測データ期間】

ケプラーは観測データの蓄積が豊富な火星を足掛かりにしてケプラーの法則を導いた。地球の公転期間が1年に対して、火星の公転期間は1.881年であるため、この最小公倍数約15年ごとに、太陽と地球と火星の相対的位置関係がもとに戻る。そのため、ブラーエの観測データが16年間というのは、解析的に火星の楕円運動を一巡するのに十分なデータ量であったと言える。

1609 ガリレオ・ガリレイ イタリア

ガリレオ式望遠鏡

望遠鏡が発明(1605年)され、翌年にはガリレオは自作でガリレオ式望遠鏡を製作し、数々の天文現象を発見する。ガリレオ型望遠鏡は、凸の対物レンズと凹の接眼レンズを組み合わせた望遠鏡である。

1610 トマス・ハリオット イギリイス

太陽の黒点

※望遠鏡で見た最古のスケッチ

太陽の黒点は古代から知られていたが、望遠鏡による詳細なスケッチはハリオットのもの(1610年12月頃)が最古。黒点は11年周期で増減するが、この頃は黒点が多い時期に該当。ガリレオも1610年夏頃に自作の望遠鏡で黒点の観察をしていたらしいが、この時点では黒点の詳細な観測記録は残していない。

1610 ガリレオ・ガリレイ イタリア

書物『星界の報告

(ラテン語:シデレウス・ヌンシウス)

月面模様

天の川の正体(星の集合体)

ガリレオ衛星(木星の4衛星)

土星の奇妙な形

etc.

ガリレオは『星界の報告』で自作の望遠鏡による天体観測の結果を報告した。

オリオン座の既知の星の周り数度の範囲内で、500以上の星が散在していることに驚いたと述べている。月の表面は(古代から伝え聞くような)完全な球体などではなく、地球(地上界)同様に山谷ある地面と変わりない…と述べ、過去の哲学者の妄想と実際が異なることを指摘した。また木星の4つの衛星(ガリレオ衛星:イオ、エウロパ、ガニメデ、カリスト)の発見も、地球と月の関係の共通点を惹起し、地球を特別視せず相対的に見る材料となった。土星が奇妙な形をしていることに触れているが、ガリレオの望遠鏡はそこまで鮮明に形状を捉えることができなかったため、環ではなく三つの星が並んでいるように見えた。

【揺らぐ天界の完全性】

ルネサンス以前の人々は古代の哲学者が考えたように天界と地上界(月下界)は別世界として捉え、それぞれが全く異なる法則で支配されていると考えていた。地上は不完全で穢れた世界と見なす一方、天界は完全な神の栄光に包まれた世界であった。しかし、ガリレオは望遠鏡で月を観察したことで、信じられていたような完全な球体ではなく、穢れた地上界と大差のないものだと察し始めた。書物『星界の報告』には、「…地球が遊星であり、輝きにおいて月を凌駕していること、世界の底に淀んでいる汚い滓(カス)ではないことを示そう…」とある。

また木星の衛星の発見は、いわば小さな太陽系(この場合、木星を太陽と見立てる)を類推させ、地動説(太陽中心説)の信憑性を高める材料となった。

ガリレオやケプラーの時代では、月の暗い部分は水を湛えた海だと考えていた。当時は見ることはできないが、月の表面の方が月の裏面よりも"月の海"の面積は大きい。

西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1611 ファブリチウス父子 ドイツ

太陽が自転する球体と実証

ファブリチウス父子は望遠鏡による太陽の継続的な観測を独自に実施。黒点が太陽表面上を移動する様子を確認し、太陽は自転する球体と結論付けた。 ファブリチウス父子の太陽の望遠鏡観測は、早朝の減光時の太陽を見ることがから始め、後には直接見ずにスクリーンに太陽像を投影する望遠鏡を作るなどの工夫をしている。太陽の自転周期は約27日だが、黒点はその形状が変化しても長期間存在し続けるものもある。

古代より天体は完全無欠な球体と考えられ、その自然観はキリスト教的世界観と融合。太陽はその固定観念から球体と見なされたが、それをファブリチウス父子が初めて実証。太陽の黒点の存在と自転する球体であることを発表したのは、息子(ヨハネス・ファブリチウス)である。天文学者でキリスト教牧師の父親(ダーヴィット・ファブリチウス)にとって、黒点の存在は完全無欠の球と考えるキリスト教の教えに反し、賛同しかねた。

1611 ヨハネス・ケプラー ドイツ

書物『屈折光学』

ケプラー式望遠鏡の着想

顕微鏡の理論

ガリレオの望遠鏡や天文観測の報告を受けたケプラーは、対物と接眼の両方に凸レンズを用いるケプラー式望遠鏡(屈折望遠鏡の一種で、倒立像となる)を考案。書物『屈折光学』で望遠鏡や顕微鏡の理論をまとめた。ケプラーは接眼レンズを1枚加えた計3枚の凸レンズで像を正立像を得るアイデアもあった。ケプラー式望遠鏡を実際に製作するのはクリストフ・シャイナーである(1615年)。

1612 ガリレオ・ガリレイ イタリア

海王星

※惑星ではなく星の一種として

ガリレオのノートから当時既に海王星に相当する星を記録していたことが判明。但し惑星の一つではなく、数多の星の一つという認識に過ぎなかったようだ。

【ニュートン力学による海王星の再発見】

惑星としての海王星は、1845年のヨハン・ゴットフリート・ガレによる。その端緒は、天王星(フレデリック・ウィリアム・ハーシェル/1781年)の惑星軌道の観測値がニュートン力学の予測からズレである。ニュートン力学は天王星の軌道に影響を与える未知の惑星の存在を示唆し、実際に想定される位置に海王星が見つかった。惑星の位置を決める経験則でティティウス=ボーデの法則(1766年)があるが、海王星には成立しない。

1613        
1614        
1615        
西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1616 ローマ法王庁   地動説禁止の教令、発布  
1616 ガリレオ・ガリレイ イタリア

第一次宗教裁判

ローーマ法王庁の地動説禁止の教令の発布に伴い、ガリレオも呼び出され地動説を広めないよう注意される。
1617        
1618   神聖ローマ

三十年戦争、開始

※1618年~1648年

 
1619 ヨハネス・ケプラー ドイツ

書物『宇宙の調和』

(ラテン語訳:『ハーモニース・ムンディ』)

ケプラーの第3法則

ケプラーの第1法則と第2法則が記される『新天文学(アストロノミア・ノヴァ)』(1609年)から10年後、全惑星(水星、金星、地球、火星、木星、土星)の資料を検討し、第3法則を記した『宇宙の調和』が発表。惑星運動の3番目の経験則(ケプラーの第三法則)は以下。

法則③:惑星の公転周期の2乗は楕円軌道の長半径(平均)の3乗に比例。

第3法則により惑星と太陽との平均距離から、公転周期の推計が可能。例えば、水星の太陽からの平均距離は0.3871AU(天文単位AUは太陽と地球の平均距離約1.5億km)と水星の公転周期の0.2408年はケプラーの第3法則を満たし、他惑星も同様となる。

3つの惑星運動の経験則は「ケプラーの法則」と呼ばれる。但しケプラーの法則は地動説(地球の公転運動)を直接的に実証しているわけではない。

【ニュートン力学への発展】

ケプラーの法則の発表は、ニュートン力学誕生につながる解消するべき疑問を投げかけた。

・なぜ惑星運動は円軌道でなく、楕円軌道なのか?

・なぜ惑星運動は等速ではなく、太陽からの距離に反比例して遅くなるのか?

1620 ルネ・デカルト フランス

慣性の法則

運動量保存の法則

 
1620 フランシス・ベーコン イギリス

書物『ノヴム・オルガヌム』(新オルガノン)

経験論、帰納法

 
1620 フランシス・ベーコン イギリス

熱運動説

 
1620 ケプラーの母 ドイツ

魔女裁判に出廷

ケプラーの母は魔女の疑いを掛けられ、魔女裁判に出廷。1年後に無罪放免。

西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1621 ウイルブロード・スネル オランダ

屈折の法則(スネルの法則)

水中に沈めた物体が浮き上がって見える現象から光の屈折の度合いを示す法則が

実験的に発見される。入射角の正弦(sinθ)と屈折角の正弦(sinθ)との比率(屈折率)は、媒質ごとに一定となる法則(スネルの法則)。 スネルの屈折の法則が一般に知られるよのは、死後70年後にクリスティアーン・ホイヘンスの著書『光についての論考』(1690年)で紹介されたことによる。

1622        
1623        
1624        
1625        
西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1626 クリストフ・シャイナー ドイツ

書物『ロザ・ウルシナ

太陽の自転と自転軸の傾き

太陽の差動回転

シャイナーはガリレオ同様に望遠鏡発明後の最初期に太陽黒点を発見・観察した天文学者。1611年よりシャイナーは太陽黒点の長期的観察をし、太陽の自転軸の傾き(地球の公転面から約7度)を発見。書物『ローザ・ウルシナ』で、季節(地球の公転位置)により太陽黒点が太陽表面上を移動する傾きが僅かに変化する様子を図示した。また太陽表面の黒点移動の様子から、緯度によって自転周期が異なる差動回転にも言及。

シャイナーはイエズス会の祭司であり宗教上、天動説や天体の完全球体などキリスト教の教えを伝える立場だった。黒点を太陽表面にある"しみ"だという解釈を認めるわけにはいかず、太陽表面に浮かんだ雲か衛星だと説明した。しかし後にガリレオとの激しい議論を通じ、黒点の観測を正しく解釈するようになった。

1627 ヨハネス・ケプラー ドイツ

星図『ルドルフ表

 
1627 フランシス・ベーコン イギリス

書物『ニュー・アトランティス

自然研究の学問の前進には組織的な協力体制が不可欠であることを指摘。

1628        
1629        
1630        
西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1631        
1632 ガリレオ・ガリレイ イタリア

書物『天文対話』

(イタリア語:ディアロゴ・ソプライ)

地動説支持を鮮明化

慣性の法則(等速円運動) 

※わずか半年で販売停止へ

※第2次宗教裁判のきっかけ

『天文対話』の正式名称は『プトレマイオスとコペルニクスとの二大世界体系についての対話』であり、ここでガリレオは地動説の立場を鮮明化。内容は天動説(アリストテレスとプトレマイオスの立場)を信じるシンプリチオと、地動説(コペルニクスの立場)を信じるサルヴィアチ(ガリレオの代弁者)が、進行役のサグレドを挟んで各々の持論を展開させる。一応、ローマ法王庁の地動説禁止の教令発布(1616年)を考慮して一方的な地動説支持とはならぬよう立場の異なる3者の鼎談形式で話が進む形とした。しかし本を読めばガリレオが主張したいところは一目瞭然であり、発売後わずか半年で販売停止となった。

『天文対話』では、運動法則である"慣性の法則"も天動説を否定する材料として初めて提示された。アリストテレス派の天動説の有力な根拠であった地球が動いても雲が置いてきぼりにならない事実を、"慣性の法則"で説明した。

但し、ガリレオの提唱した"慣性の法則"は地球を直径とするような等速円運動であり、厳密な等速直線運動ではない点に注意。これはガリレオですら円軌道が外力がない場合の自然運動の道筋であると考えていたと言える。

※慣性の法則を等速円運動ではなく等速直線運動として正しく記したのはルネ・デカルトである(書物『哲学原理』/1644年)。

1632 ガリレオ・ガリレイ イタリア

ガリレイの相対性原理

書物『天文対話』で"慣性の法則"を提示したガリレオは、相対性原理と呼ばれる法則を提示した。等速直線運動する世界では、観測者の立場によって観測対象は動いているようにも、止まっているようにも見える。

1633 ガリレオ・ガリレイ イタリア

宗教裁判(異端審問)に出廷

※第2次宗教裁判

ガリレオ(69歳)、前年に出版した『天文対話』が地動説を押し広めているという廉で、ローマ法王庁により宗教裁判(異端審問)に掛けられる。有罪宣告を受け、『天文対話』も禁書目録へ。

1633 ルネ・デカルト フランス

『宇宙論』の出版を断念

※ガリレオ事件のため

デカルトは当時の常識であるアリストテレス哲学を学んだが、徐々に疑念を深め、それを根本的に覆す新たな哲学体系を構築しようとしていた。アリステトレス哲学への批判は様々な論争を引き起こし、ドイツ、イタリアなど各地を転々とし、オランダに隠れ住んで執筆活動に従事していた。

デカルトの自然研究の説明の論拠は、粒子論的な自然観、機械論的自然観と呼ばれる考え方である。デカルトは天地両界を区別せず、あらゆる現象を粒子の運動や結合により統一的に説明しようとした。その考えを適用する最初のテーマは気象現象であった。デカルトは気象現象から天体現象までに適用範囲を押し広げ、『宇宙論』を完成させた。しかし当時、ガリレイがコペルニクス地動説の支持を鮮明化した『天文対話』を出版(1632年)したことで宗教裁判に発展(1633年)し、その廉で有罪を宣告された。このガリレイ事件の影響で、地動説の内容を含む『宇宙論』の出版をデカルトは断念した。

デカルトは後に『宇宙論』に代わり『方法序説及び試論』(1637年)、『哲学原理』(1644年)など多くの著書を発表する。『方法序説及び試論』では、気象学、屈折光学、幾何学を合わせた3編の試論に、序論として方法序説が付け加えられている。

デカルトは「同一の運動法則が全宇宙を貫いて支配するという自然観」という立場をとり、古代ギリシアのアリストテレスが天界と地上界(月下界)の運動法則を明確に分けた自然観と完全に異なる立場をとる。このデカルトの自然観は、ニュートンの万有引力の発見とそれによる天界と地上界の包括的な運動理論(力学)の発展に寄与したとみられる。

※方法序説とは、「自分の理性を正しく導き、色々な学問において心理を求めるための方法について」述べられている。なおデカルトの気象学は、アリストテレスの気象論(メテオロロギア)を意識していることが、語られるトピックの類似性から読み取れる。

1635 ピエール・ガッサンディ フランス 音速度の測定

大昔の人も雷などで経験上、光に対して聞こえる音が遅れることは知っており、音は大気中を移動しながら伝わっていくものだと考えていたに違いない。しかしその音の速度が初めて測定されたのは中世になってからである。

ガッサンディは遠くに配置した大砲を点火させ、発射時の大砲の火が見えてから音が聞こえるまでにかかる時間を測定した。測定された音速は478m/sであり、ガッサンディは音速は高低や強弱に関係なく一定であり、風速にも影響されないと主張した。

西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ

1636

マラン・メルセンヌ フランス

書物『普遍的和音』

音速度の測定

ガッサンディと同様に大砲を用いて音速を測定した。振り子の振動数を数えることにより、測定した。その結果、音速は1100km/hと測定され、音の種類や風向きに依存しないと報告した。後により正確に行われた実験では音速は1200km/sとなっている。

メルセンヌは数学、物理学、音響学、哲学を研究していたが、神学者でもあった。得られた音速から、地球を一周するのにかかる時間は約21時間5分であり、最後の審判の日に天使が吹き鳴らすトランペットの音は、10時間以内に地球の至る場所で聞き取られることだろうを記している。

【振り子の等時性と活用】

時計が使われていなかった時代には、時間間隔を測るのに脈拍を利用していたが、振り子の等時性が発見されると、振り子が利用され始めた(ガリレオ・ガリレイ/1583年)。振り子の等時性とは、振り子の周期(往復にかかる時間)は、重りの重さや振れ幅には無関係で、重りを吊るす紐の長さによって決まるという性質を指す。

1637 ルネ・デカルト フランス

書物『方法序説及び試論』

正式名称は、書物『自らの理性を正しく導き、諸々の学問において真理を探究するための方法についての序説及びこの方法の試論(屈折光学・気象学・幾何学)』。

試論(屈折光学・気象学・幾何学)を除いて序説単体で読まれる時は、『方法序説』と略される。"我思う、ゆえに我あり。"は、方法序説に掲載されている。屈折光学ではスネルの法則を数式化し、気象学では虹を考察し、幾何学ではデカルト座標(直行座標)を初めて提案し、直線・曲線を数式で表示した。

1638 ガリレオ・ガリレイ イタリア

書物『新科学対話』

落体の法則

放物線の運動

目視での光速度の測定実験

※失敗に終わる

書物『天文対話』の出版(1633年)を起因とした宗教裁判(1633年)の後、研究テーマとして地動説はもう語れないので地上の運動法則の研究に専念した。落体の法則は本書にて実験的に検証・考察された。

【落体の法則】

・落体の第1法則:物体の重さに関係なく同じように自由落下する

同じ大きさで重さが異なる物体(鉛、石、樫の木の球)を100mの高所から同時に落とし、着地がほぼ同時であることから第1法則を実証。軽い樫の木の球が多少早く地面に到達した理由は空気抵抗のためと結論付けた。重いものほど速く落下するとするアリストテレス派の説を否定した。

・落体の第2法則:等加速度運動で自由落下する

物体の動きを観測しやすいようにスロープ(緩い坂道)の上を金属球が転がる装置を作った。また金属球の移動距離と通過時間の関係を音で聞くために、スロープにはグノモン(1,3,5,7... といった奇数の等差数列)の間隔で鈴を付け、金属球が通過する度に触れるよう仕組んだ。なおグノモンの合計は、常に整数の平方数となる性質がある(例えば、1+3+5+7+9=5^2)。実際に装置で金属球を転がすと、金属球は同じ時間間隔(リズム)で鈴を鳴らしながら移動することが分かった。つまり、落下距離(1+3+5+7+9)は落下時間(5)の2乗(5^2)に比例する第2法則(等加速度運動)を突き止めた。ガリレオはスロープの傾斜を徐々にきつくして、最終的には鉛直にしても第2法則は成立すると類推した。

【放物線の運動】

ガリレオが発見した慣性の法則と落体の法則から、投斜体の運動が放物線を描くことを説明した。運動方向を水平方向(慣性:x=at)と垂直方向(落体:y=bt^2)に分解して法則で記述し、これを合成するとy=(b/a^2)x^2となる。

時間と速度の関係図を作ると、その面積が距離となる。等加速度運動の場合、距離は三角形の面積(1/2at^2)となる。

【目視による光速度の測定】

当時、音速度が測定された(1635年~1636年)が、光速度は測定されていなかった。光速度が有限か無限かは中世において激しく議論されており、ルネ・デカルトを代表する光速度無限派と、ガリレオを代表する光速度有限派が争っていた。ガリレオは本書にて光速度測定実験の失敗について記載している。約5km離れた距離で、片方のランプが光ったら、他方が確認できたことをランプを光らせて片方に伝えるという方法で、光速度を測った。両者の反射速度が仮に0.5秒だとしても、その間に光は地球を7周回ることになり、圧倒的な光速度に対して信頼の足る結果は得られなかった。

【光速度測定の初成功について】

光速度測定には極めて長い距離が必要であるが、最初に光速度の有限性を示すに足る光速度測定に成功したのはオーレ・レーマーである(1675年)。光速度を測る距離として利用したのは地球と木星の間の距離である。木星の第一衛星イオの(木星に対する)公転周期は一定のはずなのに、地球から見える木星の衛星食の時間が数ヵ月ほどで変化する様子から、光速度が有限であることに由来するものだと突き止めた。木星の衛星(12個ある)のうち4個はガリレオが望遠鏡観察で発見(1610年)したものなので、それを使って光速度測定に成功したことには、少し因縁めいたものを感じる。

1639        
1640        
西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1640        
1641        
1642 ガリレオ・ガリレイ イタリア ガリレオ、逝去

1642年1月8日、ガリレオ逝去(77歳)。

1642 アイザック・ニュートン イギリス ニュートン、誕生

1642年12月25日(クリスマス)、ニュートンはイギリスのリンカンシャーのウールスソープで誕生。狭い農地ながらも荘園領主の跡取り息子であった。

1661年にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学した。母親ハナは文盲だったとされ、息子が得体のしれない学業にお金をかけるより百姓仕事に精を出してほしかったようで、経済的余裕がありながら十分な仕送りはしなかった。当時の大学の講義はアリストテレスの体系を学ぶことが中心であったが、ニュートンはデカルトやガリレオなどの新しい学問にも触れた。ニュートンはメモ魔(記録魔)で、講義の内容、読書感想など細かくメモしたものが残っている。

大学在学中に、ヨーロッパ全体でペストが大流行し、1665年6月~1667年3月まで故郷ウールスソープに戻り研究・思索に耽った。この間に、ニュートンの業績として重要な微積分法や万有引力の法則の着想を抱いた。1667年にケンブリッジに戻り大学教員(フェロー)となり、1669年に26歳で数学の講座の教授となる。その間に光学の研究を行い、色収差のない反射望遠鏡も発明した。

1643 エヴァンジェリスタ・トリチェリ イタリア

大気圧の発見(トリチェリの真空実験)

気圧計(水銀気圧計)の原型

トリチェリは現代的な大気の考え方を生み出すきっかけを作る実験を行った。

当時常識であったアリストテレスの自然観では、地上界の四元素のうち空気という元素は地上から月下まで(月下界)の場所を占め、その領域が空気という元素の本来の居場所とされた。しかし現代的な大気圏とは、地上から100km程度の高度までであり、月までの距離(約38.5万kmで光速度で約1.28秒)と比べると極めて薄い層と言える。

トリチェリは、最晩年期のガリレオの助手を短期間務め、師ガリレオが亡くなるとその後任としてメディチ家の数学者・哲学者を務めた。活気あるフィレンツェの知識人コミュニティの中で治水技術者や芸術家とも交流し、研究や関心の幅を広げていった。

【トリチェリの真空実験の端緒】

有名なトリチェリの真空実験の行うきっかけは、ポンプで水を汲み上げる際に限界となる高さ(約10m)があるという認識だ。ルネサンス期は鉱山業が発展し、炭坑を掘り進め生産量を上げるには湧水(地下水)を汲み上げる必要があるが、ポンプで高さ10mまでしか水が登らないことは実務上の課題となっていた。またサイフォンの原理を利用して水をある場所から高い土地を乗り越えて別の場所へ移動させる時でも、同様の高さしか水が登らないことは確認されていた。

【トリチェリによる水の登る高さの説明】

古代ギリシアのアリストテレスは真空の存在自体を否定したが、ガリレオを含め当時の自然哲学者は真空の存在は認めつつも、自然界で真空が見出されないのは「自然は真空を嫌悪する」としてアリストテレスの考え方を踏襲していた。そして水の登る高さに限度があるのは"真空"が水を引っ張り上げる力に限度があることで説明した。しかし真空ではなく周りの空気が水を持ち上げているのではないか、と考える自然哲学者が現われ、トリチェリもその1人であり、この問題に取り組むようになった。

【トリチェリの真空実験】

トリチェリは水を汲み上げる実験で、水の代わりに水より密度の高い海水、蜂蜜、水銀(水の13.6倍)などを試した。またサイフォンの代わりに長い管に水銀を一杯に満たし、指で押さえて水銀を満たしたまま逆さに立ち上げて、水銀を入れた容器の中で指を離す。そうすると管内の水銀が下がり水銀面から76cmの高さとなり、ガラス管の上部には何もない真空空間が出現した。トリチェリは上部のガラス形状が異なるもので試し、その形状、つまり真空空間の体積に関係なく、水銀の登る高さは変化しないことを示し、ガリレオらの真空が水銀を引っ張り上げる説(真空引力説?)を否定した。つまり水銀は周囲の大気によって持ち上げられていることが示された。これは大気圧の発見である。

なおこのトリチェリの実験は、トリチェリが構想したが、トリチェリ自身は水銀の重さに耐えるガラス管を製造する技術がなかったため、トリチェリの友人が実験を遂行した。

1644 ルネ・デカルト フランス

書物『哲学原理』

慣性の法則(等速直線運動)

渦動説と3元素(エーテルなど)

『哲学原理』はデカルトのこれまでの研究の集大成である。以下、一部を取り上げる。

①慣性の法則

慣性の法則は既にガリレオ・ガリレイにより発見されていたが、それは等速円運動の持続であった(書物『天文対話』/1632年)。デカルトは「一度動かされた物体は曲線的にではなく、直線的にのみ動き続ける」として、慣性の法則を正し、明確にガリレオ・ガリレイの慣性の法則を否定した。

※デカルトの慣性の法則(等速直線運動の持続)は後に、ニュートンの書物『プリンキピア』(1687年)において「運動の第1法則」として包摂される。

②渦動説と3元素(エーテルなど)

天体の運動を説明する渦動宇宙(渦動説)を提唱。宇宙を満たす物質は運動により断片的にちぎれて無数の渦となり、そこから3種類の粒子が現われる。粒子の細かい順で第一元素(火の元素)、第二元素(気の元素)、第三元素(地の元素)とし、このうち気の元素が光の媒質たるエーテルである。光源がエーテルに圧力を加えると瞬時にエーテル内に伝わると考えた。

1645        
西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1646        
1647 ヨハネス・ヘヴェリウス ポーランド

書物『月面誌(セレノグラフィア)

※月面地理学の始まり

自作の望遠鏡で月面を丹念に観察し、書物セレノグラフィア(月面誌)を出版した。タイトルの語源セレーネはギリシア後で月もしくは月の女神を意味し、セレノグラフィアは月の図像集を意味する。本書には月の満ち欠けの月齢に応じた月面図が多数収録され、新月に始まり三日月、半月、満月等が描かれる。月の満ち欠け(盈虚)の様子は30ではなく40の位相に分けて描かれている。

セレノグラフィアの冒頭の緒論(プロレゴメナ)では、約100ページにわたり望遠鏡やレンズの製作方法が詳しく解説される。またいかに精密な図像作成に注力したかを、現場や裏方での工夫や数々の苦労話を交えて語られている。

1648        
1649

ブレーズ・パスカル

フロラン・ペリエ

フランス

ピュイ・ド・ドームの実験

※標高差の大気圧測定

ブレーズ・パスカルはトリチェリの真空実験(1643年)を知り、山頂と山麓とで大気圧を調べれば、大気圧の違いが水銀柱の高さの変化として現れると考えた。パスカルの考えた実験をパスカルの義兄であるフロラン・ペリエが、ピュイ・ド・ドーム山で遂行した。

ペリエは麓の修道院に2つのガラス管を持ち込み、そこでトリチェリの実験を行い、2つの実験装置が同一の結果(水銀柱は60cm弱)となることを確認した。一方の装置を山頂に運び上げて実験を行うと、水銀柱の高さは50cm程度にまで低下した。ペリエの報告を聞いたパスカルは、標高の違いにより上空に積まれた大気の重みの多寡が水銀柱の高さに反映されていると推論した。

1650 オットー・フォン・ゲーリケ ドイツ 真空ポンプ(空気ポンプ)

任意の容器に接続し、シリンダーとピストンで容器内の空気を排気する真空ポンプを発明。

真空の研究に利用した。