■20世紀第3四半世紀(1951~1975)
西暦 | 人物・機関 | 国 | 出来事 (発見/発表/発明/現象) | メモ |
1951年1月 | ||||
1951 |
アメリカ
アメリカ |
UNIVAC I(ユニバックワン) | 世界初のコンピュータENIAC(1946年)の開発者の両名は起業し、データ処理用のコンピュータであるUNIVAC Iを発明。政府や軍のみならず保険など民間企業への納入の開始。 | |
1951年4月 |
日本開発銀行 |
日本 |
日本開発銀行、設立 |
日本の戦後復興における超長期金融を担う日本開発銀行が設立。民間では取りにくい長期リスク、リターンが必ずしも高くないインフラ整備等のための超長期融資は、政策金融機関である開発銀行が担い、資金は郵便貯金を原資とする財政投融資資金を活用。 |
1951年12月 |
西暦 | 人物・機関 | 国 | 出来事 (発見/発表/発明/現象) | メモ |
1952年6月 |
日本政府 |
日本 | 長期信用銀行法、施行 | 民間企業の設備投資のための中長期融資を担う民間の長期専門銀行を設立するための法律が施行。本法律に基づき、日本興業銀行、日本長期信用銀行、日本債券信用銀行の3行が設立。民間であるが、国の意向も反映させながら長期資金の安定供給を実施。復興当初は鉄鋼・電力・石炭・海運の4産業を重点的に長期専門銀行を通じて資金配分された。 |
1952 |
※現代ポートフォリオ理論の開祖 |
アメリカ |
論文『ポートフォリオ・セレクション』 ※分散投資の数学的理論背景(根拠)を与えた ※平均分散分析 |
『ヴェニスの商人』(1594年~1597年)の登場人物アントニオが「私の商品は複数の船に分けて載せており、信用できます。…商品のせいで悲しい思いはしません」と語るように、分散投資の効用は実務面では早くから知られていた。 シカゴ大学大学院生のマーコウィッツは、博士論文で分散投資の理論(ポートフォリオ理論)を発表。投資会社で実際に運用されるポートフォリオの説明に「期待リターン」に加えて「リスク(損失可能性)」も考慮し、値動きの傾向が異なる銘柄を同時に保有することでポートフォリオ全体のリスクを低減できることを数学的に証明。実際に行われている投資行動に理論的背景を与えた。 民生用コンピュータのUNIVAC I(ユニバックワン)が前年に登場したが、分散投資理論をもとに株式銘柄全て(500種類超)に対して計算する処理能力はなく、金融業界の標準ツールとしてすぐに実用化されなかった。1973年のアメリカ株式市場の大暴落で、優良株さえ買っていればいいとする時代が終わり、約20年前に書かれたマーコウィッツの分散投資の理論が一躍脚光を浴びた始めた。 |
西暦 | 人物・機関 | 国 | 出来事 (発見/発表/発明/現象) | メモ |
1956 | ||||
1957 | クローサー |
国際収支発展段階説、提唱 ※6段階版を提唱 |
1国の経済発展と国際収支の関係を6段階で説明。 | |
1958 |
アメリカ イタリア |
両名は、American Economic Reviewにて論文『The Cost of Capital, Corporate Finance, and the Theory of Investment』を発表。企業の資本調達には債券と株式があるが、総資本コストを低下させる最適比率がテーマ。結論であるMMの第一命題とは、完全市場(取引コストや税金がなく自由に借り入れ可能)において企業企業価値は資金調達の方法に依存しないというもの。資本構成に関係なく総資本コストは一定であり、企業の将来CFを株主と債権者がどう分け合おうが企業価値自体に影響はない。なお1963年には法人税を考慮したモデルに変更され(修正MM理論)、このモデルでは負債調達比率を高める方が資本コストが低下し、負債の優位性を示した。 |
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1958 | アルバン・W.フィリップス | イギリス |
フィリップス曲線 ※景気(失業率)とインフレ率の関係 |
フィリップスは19世紀後半~20世紀半ばまでの100年間、イギリス経済では賃料上昇率が高いほど失業率が低い傾向があると指摘。賃料上昇率の代わりに物価上昇率を使いグラフ化(横軸:失業率、縦軸:物価上昇率)すると、右下がりの曲線となりフィリップス曲線と呼ばれる。フィリップスの発見は各国で追試確認され、標準的な経済学の常識となっている。 |
1959 | ||||
1960 | ロバート・トリフィン | アメリカ | 流動性ジレンマを指摘 | イェール大学のトリフィン教授は、米国の国際収支の赤字は国際流動性の供給に必要である一方、赤字継続は米ドルの信認低下につながるとする矛盾(流動性ジレンマ、トリフィンのジレンマ)を指摘。 |
西暦 | 人物・機関 | 国 | 出来事 (発見/発表/発明/現象) | メモ |
1961 | ||||
1962 | ||||
1963 | ウィリアム・F.シャープ | アメリカ |
※マーコウィッツの分散投資理論の 実用化理論(ベータ理論)を提唱 |
マーコウィッツの分散投資理論(1952年)を読み衝撃を受けたのが、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の博士課程で学びながら同じランド研究所に勤務していたウィリアム・シャープである。博士論文のテーマを探していたシャープは、担当教授の勧めもありマーコウィッツを訪ねた。 マーコウィッツの分散投資理論は利益とリスク、共分散行列(つまり相関関係)を計算する必要があり、500種類の株式全てを計算するとなると、その組み合わせは12万通りあり、計算量が膨大で、実用性に欠いた。マーコウィッツの理論を実務世界でも実用に堪えらるように便利なものに変える理論を考案したのがシャープの「ベータ理論」であった。 シャープの功績は、「個別の株同士の値動き比較」をせずに、「一指標と個別の株の値動き比較」をする発想をポートフォリオ管理の現場に持ち込んだことにある。これなら500銘柄の相関の計算に12万通りの組合せではなく、500回で済む。ここで比較対象となる一指標とは、市場平均(ベータ)を指す。マーコウィッツの分散投資理論とシャープの実用化理論は、実務の世界ではバー・ローゼンバーグの開発ソフトにより爆発的に世界中に普及した。 |
1963 |
アメリカ イタリア |
※配当・株価の無関連命題 |
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1964 | ウィリアム・F.シャープ | アメリカ |
CAPM理論 ※オリジナルCAPM |
シャープが、Journal of Financeにて論文『Capital Asset Prices : A Theory of Market Equilibrium under Conditions of Risk』と呼ばれる資産価格形成モデルを発表。前提として、合理的行動をとる投資家が平均分散分析(リスクとリターン)により最適ポートフォリオを決定し、安全資産(リスクゼロの資産)が存在すること。 CAPM第1定理は、市場ポートフォリオが効率的なポートフォリオそのものであること。 CAPM第2定理は、銘柄iの期待リターン(RFR+リスクプレミアム)は市場ベータが決定する。 |
1965年2月 |
アメリカ ベトナム |
アメリカ ベトナム |
ベトナム戦争、本格化 |
アメリカは2月7日に本格的な北爆を開始。 |
1965 | ジャック・ローレンス・トレイナー | アメリカ | ||
1965年11月 |
日本政府 |
日本 |
いざなぎ景気、開始 ※1965年11月~70年7月 |
西暦 | 人物・機関 | 国 | 出来事 (発見/発表/発明/現象) | メモ |
1966 | ||||
1967 | ダニエル・ベル | アメリカ | 寄稿『脱工業社会のノート』 | 社会学者ダニエル・ベルは、情報の重要性を指摘する『脱工業社会のノート』を寄稿。材の生産がもはや経済の中心活動ではなくなり、貿易や金融、保険、不動産などサービス経済の台頭が著しいと述べた。 |
1968 |
ノーベル財団 |
スウェーデン | 経済学賞、新設 |
スウェーデン国立銀行が設立300周年祝賀の一環として、ノーベル財団に働きかけ、設立された賞である。経済学賞はスウェーデン王立科学アカデミーにより選考され、ノーベル財団により承認される。ノーベル経済学賞として他のノーベル賞と同格扱いで知れ渡っているが、ノーベル財団はノーベル賞ではないと否定している。正式名称は「アルフレッド・ノーベル記念スウェーデン国立銀行経済学賞」であり、それか単に経済学賞と呼ぶ。経済学賞は翌年1969年から受賞が始まる。 |
1969 | ||||
1970 |
アメリカ |
ブラックとショールズによる オプション価格モデルの論文、不受理 |
ブラックとショールズによるオプション価格モデルの式であるブラック=ショールズ方程式の論文は、1970年には出来上がっていた。しかし1970年10月にジャーナル・オブ・ポリティカル・エコノミー誌に申し込んだ「オプション、ワラント、そのほかの証券のための理論的な価格決定公式」の論文は掲載を断られた。また同タイトルの論文をザ・レビュー・オブ・エコノミクス・アンド・スタティックス誌にも送ったが、同様に掲載は断られた。高等数学の数式を駆使した論旨は編集者たちの誓いを越えていたのである。 | |
1970 | アメリカ |
論文『効率的市場仮説(EHM)』 |
ファーマが、Journal of Financeで「効率的市場仮説:理論と実証研究」にて提唱。合理的な市場参加者で構成される株式市場では、情報は瞬時に株価に織り込まれ、いかなる情報を用いてもリスクに見合う以上のリターンは上げられないという仮説。 | |
1970 |
住宅貯蓄貸付組合 (S&L) |
アメリカ |
モーゲージ債券、登場 |
政府保証のある住宅ローンを細分化して売るという債券(モーゲージ債券)が考案され、住宅貯蓄貸付組合(S&L)が発行した。住宅貯蓄貸付組合(S&L)は数多くの個人に住宅購入資金を貸し付けており、多くのローン支払契約を保有する。住宅貯蓄貸付組合(S&L)は金融自由化で窮地に陥り、従来のように3%で借りて6%貸し、午後3時にはゴルフに行くという「三六三野郎」的な経営が行き詰まっていた。証券会社(ソロモン・ブラザーズ)はそこに目を付け、政府保証と銘打ってモーゲージ債の発行を提案し、設計料と販売手数料で荒稼ぎした。住宅貯蓄貸付組合(S&L)にとっては市場(生保等の機関投資家や個人投資家)から資金を調達することができた。 |
1970 |
※近代経済学の父 |
アメリカ | 第2回経済学賞、受賞 |
受賞理由は「静学的および動学的経済理論の発展に対する業績と、経済学における分析水準の向上に対する積極的貢献」である。数理経済学の重要性を説いた主著『経済分析の基礎』のほかに、消費者理論、生産者理論、厚生経済学、資本理論、国際経済学、財政学、金融論、人口論、経済学説史、統計学など、経済学のあらゆる分野に業績は及んでいる。1968年に新設された経済学賞はサミュエルソンに賞を与えるために作られたとすら言われている。 |
西暦 | 人物・機関 | 国 | 出来事 (発見/発表/発明/現象) | メモ |
1971年7月 | ウェルス・ファーゴ銀行 | アメリカ |
株式インデックス・ファンドの販売 ※年金向けプロダクト |
サンフランシスコのウェルス・ファーゴ銀行によって、シャープのCAPM理論(1964年)をもとに世界初の株式インデックス・ファンドが組成・販売。平均分散アプローチによる効率的ポートフォリオの構築を行う全投資家に共有のコア部品(マーケット・ポートフォリオ)が提供された。 |
1971年8月 | ニクソン大統領 | アメリカ |
第2次ニクソン・ショック(ニクソン声明) ※ブレトン・ウッズ体制の終焉 |
1971年8月15日(日)の夜9時(ワシントン時間)、ニクソン大統領は突然テレビを通じて米ドルと金の交換停止、輸入課徴金10%実施、90日間の賃金物価凍結などを宣言。後にニクソン・ショック(ドル・ショック)と呼ばれるドル防衛措置を発表。世界各国首脳にその骨子が知らされる演説の僅か2時間前で、欧州諸国首脳が事前通告を受けたのは深夜であった。 ヤルタ会談(1945年)で世界の警察、ブレトン・ウッズ会議(1944年)で世界の銀行としての地位を確立したアメリカの国力の背景には大量に保有する金があった。しかし軍事費や敗戦国援助のために増刷した米ドルが金の保有量を遥かに超え、金との交換に限界を迎え、通貨を巡る戦後体制(ブレトン・ウッズ体制)が崩壊(→通貨市場の誕生)。 |
1971年8月 | 日本政府 | 日本 | 固定相場維持を断念 | ニクソン声明発表後、欧州各国は市場閉鎖を決断。日本は市場を開いたままとし、予想通り東京市場は米ドル売り一色に。大蔵省は輸出業者のために可能な限り360円/米ドルを維持し、外貨準備は3倍以上に増加。8月28日ついに日本政府も固定相場維持を断念。1949年以降の360円/米ドル時代が終わる。 |
1971年12月 | ミルトン・フリードマン | アメリカ | 論文『通貨先物市場の必要性』 | 1971年12月23日、シカゴ・マーカンタイル取引所(CME)会長レオ・メラメッドの依頼でフリードマンは通貨先物市場の必要性を説いた論文を執筆。レオ・メラメッドは通貨先物市場の必要性を訴える講演会を全米各地で実施し、会場で論文を配布しながら「あの偉大なフリードマン博士もこう言っている」と吹聴。 |
1972年5月 |
CME |
アメリカ |
CMEに通貨先物市場、開設 ※初の金融商品の先物 |
ブレトン・ウッド体制終焉後、金とのリンクを失った各通貨は相対化され、変動相場制へ移行。為替リスクは高まり、産業人は資産の将来価値を保全する通貨先物市場を必要とした。1972年5月16日、シカゴ・マーカンタイル取引所(CME)の一角に通貨の先物取引市場が誕生。農産物の先物は既に存在したが、金融商品の先物は通貨が初。以後、債券、金利、株価指数の先物取引も始まる。 |
1972年 |
フィッシャー・ブラック | アメリカ | ゼロベータCAPM | 安全資産のない場合、貸出利子率より借入利子率が高い現実的な状況でもCAPMの基本命題(市場ポートフォリオは効率的ポートフォリオ)は成立することを示した。 |
1973年 | ブルーノ・ソルニック |
国際CAPM |
ソルニックは、従来のCAPMを国際的なモデルに拡張し、国際CAPM(International Capital Asset Pricing Model, ICAPM)を提唱。証券のプライシングに為替リスクが影響を与える点で従来のCAPMとは異なる。 | |
1973年10月 | 第一次石油危機(オイルショック) | |||
1973年12月 | 豊川信用金庫 | 日本 |
豊川信用金庫、取り付け騒ぎ ※自己実現的予言 |
12月4日、健全な財務状況だった豊川信用金庫(愛知県・豊川市)に、突如として預金者が本支店窓口に並び、20億円超の預金が引き出された。警察は威力業務妨害の疑いで噂の出所・伝播経路を精査し、その起点は電車内で女子高生の就職先の雑談で「信用金庫なんか危ない」という発言だった。 |
1974年6月 |
ヘルシュタット銀行 ブンデスバンク |
ドイツ |
ヘルシュタット銀行、破綻 ※決済リスクの認識 |
ヘルシュタット銀行は為替変動のため巨額損失を出し、ブンデスバンク(ドイツ連邦銀行)は業務停止命令を下した。この時、決済開始から完了までのラグによってヘルシュタット銀行との取引を行った相手方の銀行に損失が生じる決済リスクが認識された。またこの出来事がバーゼル銀行監督委員会の創設の契機となった。 |
1975年12月 |
バーゼル銀行監督 委員会(BCBS) |
スイス |
バーゼル合意、公表 ※バーゼル・コンコルダット |
西暦 | 人物・機関 | 国 | 出来事 (発見/発表/発明/現象) | メモ |
1973 |
CBOE |
アメリカ |
株式オプション取引が開始 |
1973年にシカゴ・オプション取引所が開設され、1973年4月には株式オプション取引が始まる。同じ年に発表されたブラック=ショールズ方程式は、それまでトレーダーの相場観に頼り割り出していたオプション価格を、コンピューターのキー操作だけで算出できるようにさせた。これが発端となり、急速にブラック=ショールズ方程式は金融取引に使われるようになり、間もなく企業の財務戦略の一角を占めるようになる。 |
1973 | ロイター(Reuters) | イギリス |
提供開始 ※初の電子市場(見えざる市場) |
イギリスの通信社ロイターは当時、ニクソン・ショック(1971年8月)に対して「ドルと金の兌換停止は世界中の通貨が単なる一商品になることを意味し、その売買には時々刻々の価格情報が必要となり、その提供サービスが新しい商売になる」と考えた。1973年にはロイター・モニター・マネー・レート・サービスを提供開始し、外国為替の初の電子市場(見えざる市場)を作り出した。 ※後にビデオ端末を介して外国為替取引のためのロイター・モニター取引サービスを提供し、今やロイターは巨大な通信売買ネットワーク市場に変貌している。 |
1973 |
アメリカ アメリカ |
オプション評価モデル |
ブラック=ショールズ方程式を作るきっかけは、リスクのないポートフォリオを作り出するにはどうすればよいか、という問題提起から始まった。もしそれが可能だとして、リスクのないポートフォリオの値付け(価格)の決定方法はどういったものか、が最大の関心事となった。 ブラックは「株価変化とそのオプション価格変化の関係」をテーラー展開の近似法を使い算出したとのことで、そこからブラックとショールズの共同研究が始まった。なおブラックがオプション価格決定の題材として用いたのはワラント債(新株引受権付き社債)である。 ブラックは、オプション価格(ワラント価格)の方程式が熱伝導方程式の一種であると気づいた。両名は「ワラント価格を左右するのは株式の変動率(ボラティリティ,リスク)であり、株価や他の資産の収益見通しには関係しない」という重要な発見をした。導いた公式をコンピューターに入れ、基本的なパラメータを微調整するとオプション価格も微妙に変化した。特に株価の揺れ動く変化(ボラティリティ)に対して、オプション価格はなんとも微妙に変化した。ブラック=ショールズのオプション価格算出式で不明な変数は、株価の価格変動率(ボラティリティ,リスク)を示す5個のσ(シグマ)だけである。つまりσ(ボラティリティ)を設定すれば、オプション価格は自動的に算出できるようになった。 ■ボストン近郊のMTI(マサチューセッツ工科大学)にオプション理論三人衆が揃う オプション理論三人衆とは、フィッシャー・ブラック、マイロン・ショールズ、ロバート・マートンの3人である。 まず1967年、ロバート・マートンがMITの大学院に博士課程の学生としてポール・サミュエルソン(近代経済学の父であり、当時はデリバティブ(オプション理論)の研究に没頭)の研究室に入った。次にマイロン・ショールズがシカゴ大学大学院(当時はマートン・ミラー教授のコンピュータ係(計算機)として修業中)で博士号を取得後、1968年に助教授としてMITの大学院に赴任してきた。フィッシャー・ブラックは、数学と物理学で博士号を取りボストンのコンサルティング会社(アーサー・D.リトル社)で会社員として働く中、金融理論の論文を読むのに飽き足らず、学会のシンポジウムや講演会にも顔を出していた。マイロン・ショールズは、シカゴ大学大学院時代の親友マイケル・ジェンセンが紹介する形でブラック・ショールズと知り合った。ブラックとショールズはともにウイリアム・シャープのCAPM理論(1964年)におけるリスクとリターンをいかにして測るのかという問題に非常に関心を持ち、意気投合した。会社員ブラックは、ショールズの研究室に入り浸るようになり、またショールズを通じ、ロバート・マートンとも親しくなった。ショールズは、MIT大学院のスローン・スクールの新人教授候補にロバート・マートンと面接している。面接の場で面接官のショールズがブラックと共にオプション価格の研究に取り組んでいることをロバート・マートンに熱っぽく伝えた。スローン・スクールに採用されたロバート・マートンはショールズと同じ階に研究室を構え、1970年頃には会社員ブラックがそこに入り浸り、オプション理論三人衆が一堂に会し、議論を繰り広げる場となった。 |
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1973 |
アメリカ |
ブラック=ショールズ方程式の正しさを数学的に証明 ※伊藤式計算法を利用 ブラック=ショールズ方程式と命名 |
1970年、ブラックとショールズがオプション価格モデルを導出したが(論文が受理され、一般公開されるのは1973年)、サミュエルソン教授とロバート・マートンも同じようなテーマに取り組んでいたことを知っていた。ブラックとショールズはテーラー級数の近似法を用いて作った公式をマートンに見せたところ、マートンはその公式が厳密な証明がなされているのか疑問を抱いた。マートンはもっと厳格にかつ詳細に、きちっとした関係を証明できるはずだと言い、そこからマートンの仕事が始まる。マートンはその公式が明確に成り立つことを数学的に証明する仕事を一人でやり遂げた。 マートン曰く、基本的にオプション価格の公式を発見したのはブラックとショールズであり、自分は同じ問題を別の独自の方法で導いた(検算した)。マートンは、日本の数学者が考案した「伊藤の定理」を応用して独自の数式を作り、それを使って解いた。マートンが用いた伊藤式計算法の方が時間経過に対する汎用性に長けていた。 マートン曰く、独自に作った数式によって証明できたことはまず「株式や債券などの現物をどのうように売買したら、オプションを買った時に得られるのと同じ収益が得られるか」でした。次に、「それならば、株式や債券などの現物取引と組み合わせることでオプションそのものを作ることができる」ということでした。オプションを現物ポートフォリオで再現できるなら、その現物ポートフォリオのコストはイプションを作るためのコストに等しい。マートンの貢献は、それが可能であることを示したという点だ。 ブラックとショールズの論文と、マートンの論文は1973年の春、ほぼ同時期に異なる雑誌に掲載されて世に出た。にもかかわらず、両論文は互いの論文を引用文献として掲げている。交流のあった3人は、論文発表前から互いに論文を読み合っていたのだ。まだ名前のなかったオプション価格の公式に「ブラック=ショールズ方程式」を命名したのもマートンである。 ■伊藤の定理との出会い マートンはコロンビア大学やカリフォルニア工科大学で数学を学んでいた。時間の流れや株式・債券などの動きを一般的な方法で分析するには数学の道具が必要で、そうした数学的手段を探していた時に伊藤の研究を知った。伊藤の研究で注目されたのは1951年の論文でしたが、金融や経済とは全く関係はなく、純粋に数学的技術の発見でした。 伊藤の業績は、一つに「不確かな期間における移り変わりを説明したり、公式化したりする技術」、もう一つは「変化を分析するための微分積分という数学道具」の開発にある。伊藤は、将来どうなるかわからない場合に使う微積分を発見した。 |
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1973 |
バートン・マルキール | アメリカ |
書物『ウォール街のランダム・ウォーカー』 初版発行 |
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1973 |
ロナルド・ドーア |
書物『イギリスの工場・日本の工場』 |
比較制度論の古典。イギリス企業は市場志向型、日本企業は組織指向型、という2つの異なるシステムを有する。日本が経済発展の後進国であり、先進国に追いつく上では組織指向型のシステムは効率的であると主張。 | |
1973 |
石油輸出国機構 (OPEC) |
原油価格の引き上げ(+21%) |
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1973 | ダニエル・ベル | アメリカ | 書物『脱工業社会の到来』 | |
1974 |
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1975 | バー・ローゼンバーグ | アメリカ |
バー・ローゼンバーグ・アソシエイトを設立 株式ポートフォリオ分析ソフトウェア「Barra」を作成・配布 |
マーコウィッツの分散投資理論、シャープの実用化理論(ベータ理論)をベースに、カリフォルニア大学バークレー校のバー・ローゼンバーグが「Barra(バーラ)」というソフトウェアを作った。 Barraとは、彼の設立したバー・ローゼンバーグ・アソシエイト(Barr Rosenberg Association)の頭文字を取って付けられた。リスクとリターンを案配したポートフォリオを作るソフトウェアである。アメリカで大ヒットし、金融工学の有効性を揺るぎないものにした。 |