■20世紀第4四半世紀(1976~2000)
西暦 | 人物・機関 | 国 | 出来事 (発見/発表/発明/現象) | メモ |
1976年 | ステファン・ロス | 裁定価格理論(APT) | 十分に発達した市場にフリーランチはないという自明の原理のもとに導出されるリスクの価格式のモデル。CAPM理論が需給均衡の原理によるリスクの価格モデルである一方、こちらは無裁定理論((ノーフリーランチ理論)と呼ばれる。 | |
1978年 | 証券アナリスト協会 | 日本 | 証券アナリスト試験、開始 | |
1979年2月 | 第二次石油危機(オイルショック) | |||
1980年 | 大衆消費社会の終焉 | 大衆消費社会とは、多くの人々が耐久消費財を購入し、ミドルクラスの人々が増え、所得格差が縮小する時代。経済成長を牽引した耐久消費財(特に自動車)の購入が先進国に行き渡り、保有高は停滞。1990年代より低成長経済に進む。 |
西暦 | 人物・機関 | 国 | 出来事 (発見/発表/発明/現象) | メモ |
1981 | Rolf W. Banz |
小型株効果(サイズ・プレミアム) |
Banzは、Journal of Financial Economicsにて論文『The Relationship Between Return and Market Value of Common Stocks』 を発表。論文は、米国株式市場において小型株は高いリターンを持つという小型株効果を報告。市場アノマリー(CAPMで説明できない現象)の一つ。 |
|
1983 | Sanjoy Basu |
割安株効果(バリュー・プレミアム) ※低PER効果 |
Basuは、Journal of Financial Economicsにて論文『The Relationship Between Earnings' Yield, Market Value and Return for NYSE Common Stocks』 を発表。PERの低い(益利回り(1/PER)の高い)銘柄で構築されたポートフォリオが高いリターンを生み出す低PER効果を報告。 | |
1984年 | 大蔵省 | 日本 | 金融自由化・円の国際化の現状と展望を発表 | 大蔵省は「金融の自由化及び円の国際化についての現状と展望」を公表。この基本路線に沿って、1985年以降本格的な金融市場の自由化・国際化措置がとられ、自由に金利が変動することを基本とする市場取引が活発化していく。 |
1984年 | 青木昌彦 | 日本 |
書物『現代の企業』 J企業モデル |
著書『現代の企業-ゲームの理論からみた法と経済』にて、企業の一般理論として、経営者が株主集団と従業員集団の間で利害バランスを取る協調ゲームを提示。企業は株主もの、企業は従業員のもの、といった二者択一は特殊理論に過ぎないとした。 |
1985年7月 |
De Bondt R.Thaler |
リターン・リバーサル効果 | 両名は、Journal of Financeにて論文『Does the Stock Market Overreact』 を発表。米国株において長期の過去リターンと将来リターンの間に負の相関があることを報告。一般的にリターン・リバーサルと呼ばれる現状。 | |
1985 |
Barr Rosenberg Kenneth Reid Ronald Lanstein |
論文『Persuasive Evidence of Market Inefficiency』 割安株効果(バリュープレミアム)の存在 |
株式の平均リターンとBMR(簿価時価比率)に正の関係を見出した。 | |
1985年9月 |
ジェームズ・ベーガー 宮澤喜一 |
G5 |
先進各国がドル高の是正で協調。 基軸通貨であるドルを守ることが円の通貨価値の安定に資するという認識が共有された。世界の経済不均衡を是正するには、日本の経常黒字を減らすために内需拡大させ、逆にアメリカは経常赤字を減らすために浪費を抑えて財政を立て直すというのが合意の柱となった。 プラザ合意以降、円高が進行し、日本から海外に出かける人の数は増加した。 |
|
1985年10月 | 民間銀行 | 日本 | 大口定期預金の金利自由化 |
最低預入金額10億円とする大口定期預金に対して金利自由化がスタート。これにより銀行には金利リスクが発生することになる。 なおその後、半年刻みのペースで金利自由化の対象となる定期預金の最低預入金額は5億円、3億円、1億円を引き下げられ、1989年10月には1000万円まで引き下げられた。銀行の資金調達競争が生じ、銀行における運用と調達の資金マッチングの重要性が高まった。 ※なお普通預金の金利自由化は1994年10月以降。 |
西暦 | 人物・機関 | 国 | 出来事 (発見/発表/発明/現象) | メモ |
1986年 | ||||
1986年2月 | 日本政府 | 日本 |
割引短期国庫債券(TB)、 発行開始 |
1980年代後半以降一斉に償還を迎える国債を円滑に借換えを行うため、1985年に国債整理基金特別会計法の改正が行われ、借換債に中長期債に加えて、短期債の導入や、年度を越える前倒債の発行が可能となった。こうした経緯で、1986年2月に初めてTB第1回債(発行レートは5.6%)が発行された。 FBが融通債である一方、TBは国債の償還・借換えを円滑に執り行うために発行される短期債である。FBが複数の会計で発行されるのに対して、TBは国債整理基金特別会計での発行のみとなる。 ※発行根拠法・発行理由が異なるFBとTBは2009年2月に国庫短期証券(Tビル)として名称統合される。 |
1986年 |
日本金融業界、金融工学を導入 (1986年~1990年頃) |
昔ながらの手法に限界を感じていた若い世代のファンド・マネージャーは、株式ポートフォリオ分析ソフト「Barra(バーラ)」を手掛かりに金融工学への関心を高めていった。この頃、金融機関に理系人材が入り始め、これからは数学ができる人材でないとダメだという風潮が浸透し始めた。 ■日本金融機関による米国企業・学者との提携 野村證券は、バーラを作った本人と提携しようとし、ローゼンバーグの会社と提携した。ここから日本金融機関の提携ラッシュが始まる。各証券会社はアメリカの錚々たる学者と次々と提携した。大和證券は、アービトラージ・プライシング理論を作ったイエール大学のロスやUCLAのロールと提携。山一證券は、ニューヨーク大学のブラウンらとモデルを開発。日興證券は、ローゼンバーグの弟子が開発したポートフォリオ・インシュアランスを導入し、ウェルスファーゴと提携した。 最後は学者を押さえる流れとなり、野村證券はニューヨーク大学のエドウィン・エルトンやマーティン・グルーバー、MITにいたジョン・コックスと契約。大和證券はハリー・マーコウィッツを顧問契約。日興證券はウイリアム・シャープと顧問契約。 以上、バブル景気の金余りの時代、各金融機関は金にものを言わせてガンガン提携した。信託、都銀、生保もそうした流れで開発部を設置した。三菱信託が作ったM-TEC、日本生命が作ったニッセイ基礎研究所など。 |
||
1986年 | ゲイリー・P.ブリンソン | アメリカ |
論文『ポートフォリオ・パフォーマンスの決定要因』 年金ポートフォリオの収益はアセットアロケーションによってほぼ決まる |
1986年に発表した論文『ポートフォリオ・パフォーマンスの決定要因』が、最初に年金ポートフォリオのリターンにとってアセットアロケーションが重要であることを実証した。彼らは米国年金の過去10年間のリターンを、アセットアロケーション要因、銘柄選択要因、売買要因に切り分けて分析し、結果、9割超のリターンはアセットアロケーションによるものであることを示した。 但し、逆に言えば米国年金が当初定めたアセットアロケーション(基本ポートフォリオ)を大きく変更するような運営を行っていなかったのではないか…とも言える。 |
1987年 | フランク・ラッセル社 | アメリカ | スタイル・インデックスを公表 | 米国のコンサル会社であるフランク・ラッセル社は、ファンドマネジャーの特性を整理していたところ、運用方針の類似性から区分し、その分類を投資スタイルと定義。投資スタイルによる運用評価を行うため、1987年に最初のスタイル・インデックスが公表。 |
1987年2月 | NTT | 日本 |
NTT株第一次売り出し |
日本電電公社は2年前に民営化されNTTとなり、NTT株が公開され、売り出された。純資産額で見た株価は21万円である一方で、売り出し価格は119.7万円と割高だったため政府は当然売れ残ると覚悟していたが一瞬で売り切れた。その2ヵ月後の4月には最高値の318万円をマークし、多くの人はあの時買えていればと後悔したそう。 |
1987年2月 | 日銀 | 日本 |
公定歩合、引き下げ →2.50% () |
日銀(総裁は澄田智)は2月に公定歩合の引き下げを実施。 段階的な公定歩合の引き下げが、不動産などの資産価値の上昇を招いた。 ※1995年以前の日銀公表資料はこちら。 |
1987年10月 | ニューヨーク証券取引所 | 米国 |
1987年10月19日、ニューヨーク株式市場で起きた過去最大規模の暴落、ブラックマンデー(暗黒の月曜日)と呼ばれる市場クラッシュ。この日だけでダウ・ジョーンズ株価指数は22.6%下落。暴落理由は不明であったが、プログラム取引やポートフォリオ・インシュアランスと見られている。 |
|
1988年 | ニューヨーク証券取引所 | 米国 | サーキット・ブレーカー制度、導入 |
ブラックマンデーにおける先物主導で売りが売りを呼ぶリスクが注目。翌年1988年にサーキット・ブレーカー精度が導入された。 |
1988年6月 | リクルート事件、発生 |
竹下内閣総辞職となった。 |
||
1988年7月 |
バーゼル銀行監督 委員会(BCBS) |
スイス |
バーゼル1、公表 ※バーゼル・アコード |
1988年7月にバーゼル1が公表。銀行規制の国際統一基準であり、1992年末より適用。バーゼル1は銀行の取引相手の倒産損失(信用リスク)を焦点とする規制。当時はまだ金融自由化間もない時期で、リスクの種類も分類する程の実態はなく、シンプルなものだった。市場リスクやオペレーショナル・リスクという文言は登場しない。 |
1989年4月 | 日本 | 日本 | 理系人材、金融業へ大量就職 | 1980年代後半、オプションなど金融工学の発展・実務利用に伴い。金融機関は理数情報に強い理系人材を大量採用し始めた。1989年春には東工大の学部卒の30%、東大の機械系学生の半分が金融ビジネスに参入する、異常事態となっていた。 |
1989年4月 | 日本政府 | 日本 | 消費税3%、導入 | |
1989年5月 | 日銀 | 日本 |
公定歩合、引き上げ 2.50%→3.25% (+0.75%) |
日銀(総裁は澄田智)は5月31日に公定歩合の引き上げを実施。 ブラックマンデー(1987年10月)以降、日銀は公定歩合の引き上げタイミングを見極めていたが、この時期に引き上げた。 ※1995年以前の日銀公表資料はこちら。 |
1989年6月 | 日本 |
竹下内閣、総辞職 |
||
1989年6月 | 日本 |
宇野内閣、発足 |
||
1989年10月 | 日銀 | 日本 |
公定歩合、引き上げ 3.25%→3.75% (+0.50%) |
日銀(総裁は澄田智)は10月11日に当年2度目の公定歩合の引き上げを実施。 ※1995年以前の日銀公表資料はこちら。 |
1989年11月 |
西ドイツ 東ドイツ |
西ドイツ 東ドイツ |
ベルリンの壁、崩壊 |
|
1989年12月 | 日銀 | 日本 |
公定歩合、引き上げ 3.75%→4.25% (+0.50%) |
日銀(総裁は三重野康)は12月に当年3度目の公定歩合の引き上げを実施。 ※1995年以前の日銀公表資料はこちら。 |
1989年12月 | 東証 | 日本 | 日経平均株価38915円を付けた | |
1989年12月 |
ニュージーランド 準備銀行 |
ニュージー ランド |
ニュージーランド準備銀行法、改正 インフレ・ターゲットの導入 |
二桁台のインフレ率が続く中、世界に先駆けてインフレ・ターゲットを設定する法制度を整備。また中央銀行の独立性を法的に確保し、政権与党に有利な金融政策の操作(例えば、選挙対策として金融緩和策を実行)を断ち切る枠組みも構築。 |
1990年3月 | 日銀 | 日本 |
公定歩合、引き上げ
4.25%→5.25% (+1.00%) |
日銀(総裁は三重野康)は3月に公定歩合の引き上げを実施。 ※1995年以前の日銀公表資料はこちら。 |
1990年3月 |
大蔵省 | 日本 | 不動産融資の総量規制 | 不動産向け融資の伸び率を総貸出の伸び率以下に抑制することを目的として、大蔵省から金融機関に対して行われた行政指導である。 |
1990年5月 |
伊藤萬 住友銀行 |
日本 | イトマン事件、発覚 | |
1990年8月 |
日銀 (三重野総裁) |
日本 |
公定歩合、引き上げ
5.25%→6.00% (+0.75%) |
日銀(総裁は三重野康)は8月30日に公定歩合の引き上げを実施。 この時既に前年末の株価(38915円)から26000円まで下落していたが、この追い打ち利上げにより株価はさらに下落し9月末の株価は20983円となった。この利上げによる暴落を"三重野暴落"を呼ぶ。 ※1995年以前の日銀公表資料はこちら。 |
1990年10月 |
ドイツ |
ドイツ |
ドイツ、再統一 |
ベルリンの壁崩壊から11ヵ月後、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)にドイツ民主共和国(東ドイツ)に編入され、ドイツは再統一。 |
西暦 | 人物・機関 | 国 | 出来事 (発見/発表/発明/現象) | メモ |
1991年2月 | カナダ銀行 | カナダ | インフレ・ターゲットの導入 | |
1991年4月 | Scott E.Stickel | リビジョン効果 | Stickelは、Journal of Accounting Researchにて論文『Common Stock Returns Surrounding Earnings Forecast Revisions: More Puzzling Evidence』を発表。アナリストの利益予想の変化率とその後の株式リターンの関係を検証し、リビジョン公表後の6ヵ月程度の期間、リビジョンと同じ方向のアブノーマル・リターンが観測されることを報告。 | |
1991年6月 | 野村證券 | 日本 | 野村證券損失補填事件 | |
1991年7月 | 日本銀行 | 日本 | 窓口指導、廃止 | 金融政策手段(公定歩合操作・準備率操作)の補完手段である窓口指導を廃止。窓口指導は、貸出増加額規制と呼ばれるが、法令等に依拠せず、金融機関の協力を前提とする道徳的説得とされた。 |
1991年7月 | 日本銀行 | 日本 | 公定歩合、引き下げ | |
1991年10月 |
榊原茂樹 青山 護 浅野幸弘 |
日本 | 書籍『証券投資論』発刊 |
西暦 | 人物・機関 | 国 | 出来事 (発見/発表/発明/現象) | メモ |
1992年 |
論文『The Cross Section of Expected Stock Returns』 ※リターン差の90%以上を説明可能 |
|||
1992年 | JPモルガン | アメリカ | リスクメトリクス | VaR(バリュー・アット・リスク)がリスク管理標準ツールとして普及。 |
1992年2月 | 欧州共同体(EC) | 欧州 | マーストリヒト条約、締結 | 1980年代は市場統合の面で欧州一体化が進展したが、進展するにつれ為替取引コストや為替リスクが経済活動の障害として目立つようになりドロールレポート(1989年)をベースに単一通貨導入を定めたマーストリヒト条約が締結。 |
1992年10月 | イングランド銀行 | イギリス | インフレ・ターゲットの導入 | |
1992年11月 | ジョン・ブライアン・テイラー | アメリカ | テイラールール、発表 |
テイラーはカーネギー・ロチェスター・コンファランスで政策金利の設定方式を発表。フィッシャー方程式を応用した式。実質政策金利(実質短期金利)=均衡実質金利(自然利子率)+(α-1)×(インフレ率-目標インフレ率)+β×GDPギャップもしくは、名目政策金利(名目短期金利)=実質短期金利+インフレ率=均衡実質金利(自然利子率)+目標インフレ率+α×(インフレ率-目標インフレ率)+β×GDPギャップと表現される。テイラーは目標インフレ率=2%、α=1.5、β=0.5の模範解を米国データ(1987年~1992年)をもとに推奨。 |
1992年12月 |
西暦 | 人物・機関 | 国 | 出来事 (発見/発表/発明/現象) | メモ |
1993年2月 | 3ファクター・モデル(FF3ファクター・モデル) | 両名は、Journal of Financial Economicsにて論文『Common risk factors in the returns on stocks and bonds』を発表。市場アノマリー(市場ベータのみでは説明できない現状)を他のリスクの見返り(リスクプレミアム)として説明する代表的なモデル。市場ベータ(MKT)とサイズF(SMB)とバリューF(HML)で3ファクターで重回帰し、リターンを説明する。 | ||
1993年3月 |
Jagadeesh Titman |
モメンタム効果 | 両名は、Journal of Financeにて論文『Returns Buying Winners and Selling Losers : Implications for Stock Market Efficiency』を発表。短期の過去リターン将来のリターンの間の正の相関を報告。モメンタムと呼ばれる現象。 | |
1993年4月 | 大蔵省 | 日本 | BIS規制、国内開始 | 銀行法改正によるバーゼル自己資本比率規制(BIS規制)を国内開始。 |
1993年7月 | G30 | アメリカ | G30レポート | G30(グループ・オブ・サーティ)は米国ワシントンに本拠地を置き、各国中銀首脳や民間金融機関の関係者からなるシンクタンク。7月に「デリバティブ:その実務と原則」、俗にいうG30レポートが公表された。提言⑤ではVaR(バリュー・アット・リスク)に言及。 |
1993年7月 |
衆議院選挙、自民党大敗 |
|||
1993年8月 |
細川内閣、発足 |
38年間続いた自民党政権が倒れ、非自民連立政権である細川内閣が誕生。以降、自民党は1998年7月から2年弱続いた小渕内閣の時期を除き、単独政権を樹立することはできなくなった。 | ||
1993年8月 |
世界銀行 | 国際 |
レポート「東アジアの奇跡」、発表 |
世界銀行はレポート「東アジアの奇跡」を発表し、アジアの経済発展を称賛。 |
1993年12月 |
中国政府 中国人民銀行 |
中国 | 人民元の利下げ(▲30%) | |
西暦 | 人物・機関 | 国 | 出来事 (発見/発表/発明/現象) | メモ |
1994年1月 | ||||
1994年2月 | 連邦準備制度(Fed) | アメリカ |
FRBショック ※5年ぶりの利上げ |
FOMCにて政策金利の引き上げ(3.25%へ)を決定。ブラックマンデー(1987年10月)以降続く緩和策の転換。グリーンスパンFRB議長は前月に利上げを示唆していたが、市場は十分織り込んでおらず急激な金利上昇に(FRBショック)。デリバティブによりレバレッジを高めた仕組債等の損失が話題に。 |
1994年7月 | 国際決済銀行(BIS) | 国際 | デリバティブの実務ガイドライン | G30レポートに呼応する形で国際決済銀行(BIS)のバーゼル銀行監督委員会は、翌年1994年7月に「デリバティブ取引に関するリスク管理ガイドライン」を公表。市場リスク管理手法として民間金融機関によるVaRへの取組みが触れられる。 |
1994年 |
JPモルガン | アメリカ | リスクメトリクス | G30レポート作成に貢献したJPモルガンは1994年、自社開発のVaR手法とデータセットからなるリスクメトリクスを公表。自ら計算モデルを構築できなかった金融機関や事業法人など、一定の手法に基づくVaRを簡易的に計算可能になった。 |
1994年10月 | 民間銀行 | 日本 | 普通預金の金利自由化 |
横並びだった普通預金の金利が自由化され、銀行は自らの経営判断で、高金利で預金を調達可能になった。 ※これ以前の普通預金の金利は日銀のコントロール下(公定歩合に連動)にあった。例えば景気過熱局面で日銀が公定歩合を引き上げると、連動して民間銀行の普通預金金利も上がり、世の中のお金の流れにブレーキを効かせることができた。公定歩合は日銀が民間銀行に資金を貸し出す際の金利。 |
1994年12月 | メキシコ政府 | メキシコ |
メキシコ通貨危機、発生 ※テキーラ危機 |
当時、メキシコ・ペソは割高で経常収支赤字が拡大していたが、メキシコ政府はペソを切り下げず、ドル建て短期国債(テソボノス)による資金調達を行っていた。しかし1994年11月のアメリカの公定歩合の引き上げを契機に、リパトリエーションが起き、ペソの5%引き下げ(12月20日)、変動相場制への移行(12月22日)を迫られた。メキシコの外貨準備は1993年末の263億ドルから1995年1月末の35億ドルまで減少。 |
1994年12月 | 東京外為市場慣行委員会 | 日本 | 東京市場の取引時間制度の撤廃 | 従来、東京市場の取引時間には昼休みがあったが、シンガポールやシドニーの為替市場は動くことから、12月22日より昼休みの慣行は廃止された。 |
西暦 | 人物・機関 | 国 | 出来事 (発見/発表/発明/現象) | メモ |
1995年1月 |
||||
1995年12月 | 住宅金融専門会社 | 日本 | 住専nriへ公的資金注入を決定 | |
1995年12月 |
フランク・ラッセル社 野村総合研究所 |
アメリカ 日本 |
Russell/NRI日本株スタイルインデックスが公表 |
西暦 | 人物・機関 | 国 | 出来事 (発見/発表/発明/現象) | メモ |
1996年1月 | ||||
1996年12月 |
西暦 | 人物・機関 | 国 | 出来事 (発見/発表/発明/現象) | メモ |
1997年1月 | ||||
1997年3月 | Mark M.Carhart |
4ファクター・モデル ※モメンタム効果の追加 |
Carhartは、Journal of Financeにて論文『On persistence in mutual fund performance』を発表。3ファクター・モデルでは説明できないとされたモメンタム効果を第4のファクター(UMDファクターと呼ばれる)として設定したモデル。 | |
1997年4月 | 日本 | 日本 |
国内銀行の早期是正措置、実施 |
1998年度より銀行に対して早期是正措置を開始。自己資本比率を国際業務を含む銀行は8%、含まない銀行は4%の維持を要請。維持できない場合、金融監督庁が経営健全化を命じ、業務停止命令を下す。銀行は貸出回収により総資産を縮小し、自己資本比率の上昇させた。企業の設備投資減少の要因。 |
1997年6月 | 日本政府 | 日本 | 日銀法改正 | 戦時立法の旧日銀法(1942年成立)は、経済・金融の国際化や市場化を踏まえ、透明性と独立性の向上のため改正。物価安定と金融インフラの安定の2つの目的が定められた。 |
1997年7月 |
タイ |
タイ |
タイバーツ、暴落 ※アジア通貨危機、発端 |
1997年7月、タイの外貨準備が底を尽き通貨危機発生。1980年代初頭からのドルペッグ制下での為替の安定と過大評価、短期外資資金の急激な流出による経常赤字の膨張(1995年にはGDP比8%)、脆弱な金融システム等が背景。海外借入に依存する成長に外国資本の懸念が高まり、競争的な資本逃避(リパトリエーション)発生。資金調達方法ではダブルミスマッチ(通貨と融資年限の相違)も構造要因として指摘。 |
1997年7月 |
インドネシア |
インドネシア |
インドネシアルピア、暴落 ※アジア通貨危機、伝播 |
タイを震源地とする通貨危機は周辺国へ伝播。インドネシアもタイ同様に対外債務が増加していた。国内金融機関に加えて国内企業も外国銀行から外貨建て借入をしていた点がタイよりも債務再編を困難に。インドネシアルピアは1/5に暴落、深刻な輸入インフレ(輸入品価格が5倍)に。 |
1997年11月 | 三洋証券 | 日本 |
三洋証券、破綻 |
|
1997年11月 | 北海道開拓銀行 | 日本 |
拓銀、破綻 |
都銀として初の経営破綻。 |
1997年11月 | 山一證券 | 日本 |
山一證券、破綻 |
日本四大証券の一つ山一證券が自主廃業。 |
西暦 | 人物・機関 | 国 | 出来事 (発見/発表/発明/現象) | メモ |
1998年1月 | 大蔵省 | 日本 | ||
1998年4月 | 日本政府 | 日本 |
新外為法、施行 |
1998年4月に新外為法(外国為替及び外国貿易法)が施行。外為法の制定当初は対外取引は原則禁止であったが、徐々に緩和され、新外為法では原則自由の枠組みで施行された。外為法は国際金融システムの濫用防止のため資産凍結措置等を実施する法律としても機能する。 |
1998年5月 | インドネシア政府 | インドネシア |
スハルト政権、崩壊 |
通貨危機によりIMF支援を要請したインドネシアは、支援条件として財政緊縮策の一環としてガソリン価格を引き上げた。これが直接の引き金となり各地で暴動が起き、32年続いたスハルト政権も崩壊。 |
1998年6月 | 欧州中央銀行(ECB) | 欧州 | 欧州中央銀行(ECB)、設立 | 1998年6月1日、 欧州の通貨統合に先立ち誕生した銀行。欧州各国の中央銀行業務を継承するべく誕生した。実際の業務は、1999年1月1日より開始。 |
1998年7月 | 日本政府 | 日本 | 小渕内閣、発足 | |
1998年8月 | ロシア | ロシア危機 | ||
1998年8月 | ポール・クルーグマン |
アメリカ |
脱デフレのためのインフレ目標 |
クルーグマンは自身のホームページで、日本は流動性の罠の状態にあると診断。従来、高インフレ抑制策として導入されていたインフレ目標を、脱デフレのために導入してはどうかと提言。 |
1998年秋頃 | LTCM |
アメリカ コネチカット州 |
LTCMの破綻 |
金融工学を駆使して年利40%超の運用実績を誇り、ヘッジファンドの頂点を極めたLTCM(ロング・ターム・キャピタル・マネジメント)。設立メンバーであり、経営参加していた金融工学の担い手であるマイロン・ショールズとロバート・マートンがいる。アジア通貨危機、ロシア危機が発端とし、LTCM破綻後は利下げによる金融緩和が行われた。 |
1998年9月 | マレーシア政府 |
マレーシア |
固定相場制・資本規制の導入 ※通貨危機の対応 |
タイを震源とするアジア通貨危機によりマレーシアリンギットも暴落した。但し相対的なダメージは低く(銀行の不良債権はGDP比25%程度)、IMF支援に頼らずに独力で切り抜けた。危機の深刻度と国内貯蓄(年金ファンドや国営石油会社の存在)を見極め、マハティール政権では迅速な規制対応(固定相場制と資本規制)を導入。国際金融のトリレンマの視点では不良債権処理を進めたいマレーシアにとって金融政策の独立性は保持する必要があり、自由な資本移動を犠牲にした形。 |
1998年9月 | FRB |
アメリカ |
緊急利下げ決定 |
1998年9月29日、 |
1998年10月 | 日本長期信用銀行 | 日本 | 長銀、破綻 | |
1998年10月 | 日本債券信用銀行 | 日本 | 日債銀、破綻 | |
1998年11月 | ||||
1998年12月 |
西暦 | 人物・機関 | 国 | 出来事 (発見/発表/発明/現象) | メモ |
1999年1月 |
欧州理事会 欧州中央銀行(ECB) |
欧州 |
欧州統一通貨ユーロ、導入 ※ユーロ圏の誕生 |
1999年1日1日、収斂基準(マーストリヒト基準)を満たすと判断された11ヵ国(ドイツ/フランス/ベネルクス3国(ベルギー/ルクセンブルク/オランダ)/オーストリア/フィンランド/イタリア/スペイン/ポルトガル/アイルランド)から始まるが、経済合理性を重視する識者の間では各国間の生産性やインフレ率の格差、財政状態等から不適合と言える国も含まれた。 ■通貨統一・金融(金利)統一による問題 ①為替による国間の貿易・経常収支の不均衡の自然な是正は行われない。 ②国ごとの景気動向・インフレ率に適した金融政策を行えない(金融集権)。 ③国を跨ぐ財政支援による格差是正はない(財政分権)。 |
1999年2月 |
日銀 |
日本 |
ゼロ金利政策、実施 |
|
1999年4月 |
日本政府 | 日本 |
FB、公募入札の導入 |
1998年に始まった金融制度改革、円の国際化推進の一環として、FB・TB市場の抜本的な改革を行い、1999年4月よりFBの発行方式を「定率公募残額日銀引受け」から「原則公募入札」に改めた。 公募入札開始直前の1999年2月に事実上のゼロ金利政策が実施されていたため、第1回債の0.108%以降徐々に低下し、夏場には一時0.02%台まで低下。 同時にFBの償還期間を2ヵ月から3ヵ月に変更し、合わせる形でTBの3ヵ月物を廃止し(2000年4月)、新たに1年物を追加した。 |
1999年10月 | 日本 |
株式手数料、完全無料化 |
||
1999年12月 |
西暦 | 人物・機関 | 国 | 出来事 (発見/発表/発明/現象) | メモ |
2000年1月 | ||||
2000年3月 | ナスダック市場 | アメリカ |
ITバブル崩壊、開始 |
1990年代初頭から2000年初頭までパソコン、インターネット、eコマースの普及に伴いアメリカのインターネット関連企業(ベンチャー)の実態を伴わない株高が継続。IT化は、企業のコスト(人件費・オフィス代)削減が進み、商品価格の抑制が期待された。2000年3月10日にナスダック市場で最高値5048を付けたが、2001年以降、過熱感を警戒したFRBによる政策金利の引き上げや、同時多発テロ(9.11)もバブル崩壊を助長。 |
2000年5月 |
ASEAN 日本 中国 韓国 |
国際 |
第2回ASEAN+3財務大臣会議、 チェンマイ・イニシアティブの合意 |
第2回ASEAN+3財務大臣会議が開催。通貨危機に陥った国に対し、各国の外貨準備である米ドルを融通し合うため、二国間の通貨スワップ取極のネットワークを構築するスワップ協定(チェンマイ・イニシアティブ(CMI))に合意。 |
2000年8月 |
日銀 |
日本 | ゼロ金利政策を解除 |
日銀(速水総裁、山口副総裁)はITバブルの恩恵で日本経済が少し上向いたことでゼロ金利政策の解除を実施(コーレ・レートを0.25%へ誘導)。 なお中原伸之審議委員はこの決定に反対票を投じている。物価がプラスに転じない状況での利上げに異を唱え、デフレ払拭懸念という抽象的な判断基準を痛烈に批判した。 ※その後ITバブル崩壊などによる経済情勢の悪化を受けて翌年2月にはゼロ金利政策が再開され、3月には日銀当座預金残高をターゲットにする量的緩和政策がスタートする。 |
2000年12月 |