■昭和時代-戦後 (1945-1989)
和暦 | 西暦 | 日本 | 海外 |
昭和20.8 | 1945.8 |
ポツダム宣言受託の通知・公表 イギリス・アメリカ・中華民国によるポツダム宣言(日本への降伏要求の最終宣言/7月26日)に対して、日本は8月14日にスイス政府を通じて連合国に受託を通知。8月15日に玉音放送で敗戦を公表。 |
|
昭和20.8 | 1945.8 |
東久邇宮内閣、誕生 終戦処理内閣として皇族で陸軍大将の東久邇宮(ヒガシクニノミヤ)稔彦王(ナルヒコオウ)が内閣総理大臣に就任。皇族が首相となった唯一の内閣。また在職日数は54日と史上最短。 |
|
昭和20.9 | 1945.9 |
降伏文書に署名 ※休戦協定の確定 9月2日、重光葵外相は東京湾上の米軍艦ミズーリ号で降伏文書に調印。日本は終戦を迎える。 |
|
昭和20.10 | 1945.10 |
国際連合、発足 国際平和維持のため10月24日に国際連合が発足。連合国であるアメリカ・ソ連・イギリス・フランス・中華民国の主要5ヵ国は常任理事国であり、拒否権という強い権限を持つ。国連憲章では戦争は違法となり、また日本・ドイツ・イタリアなどを敵国として差別的に扱う敵国条項がある。 |
|
昭和21.2 | 1946.2 |
金融緊急措置令、施行 新円の発行及び、旧円の預金封鎖の2本柱。戦後の悪性インフレは国民生活を襲い、その対策として政府・日銀が急遽実施した。 |
|
昭和21.6 | 1946.6 |
支那にて第二次国共内戦 支那では終戦までは抗日のため一時的に共闘していた蒋介石率いる国民党(国民革命軍)と毛沢東率いる共産党(人民解放軍)の2つの勢力が内戦を始めた(第二次国共内戦)。1949年12月まで続き、共産党の勝利に終わる。 |
|
昭和22.5 | 1946.11 |
日本国憲法、公布 日本政府はGHQ草案(GHQ民政局がマッカーサー・ノートに従い起草)をもとに内閣草案を作成し、枢密院で可決された。その後、議会(貴族院・衆議院)での審議・修正を経て、日本国憲法の条文を確定した。昭和天皇の裁可を経て1946年11月3日に日本国憲法は公布された。※施行は1947年5月3日。 1条~9条までは天皇について記載。1条では、天皇は日本国及び日本国民統合の象徴であり、その地位は主権を有する日本国民の総意に基づくと記される。 |
|
昭和22.5 | 1947.5 |
外国人登録令、施行 戦前まで日本人(外地人)とされた朝鮮、台湾等の出身者も、外国人として登録を義務付けられた。1947年の登録外国人数は64万人で、うち94%が朝鮮出身者であった。 |
|
昭和24.4 | 1949.4 |
西側諸国、北大西洋条約機構(NATO)を発足 アメリカは西ヨーロッパと関係を深め、軍事同盟である北大西洋条約機構(NATO)を発足。集団防衛体制を構築した。 |
|
1949.4 |
米ドル円レートが360円に 4月23日、GHQ(連合国総司令部)は1ドル360円の単一為替レートを発表。4月25日より実施された。 |
||
1949.10 |
毛沢東、中華人民共和国の建国宣言 蒋介石率いる国民党を台湾に追い出し、第二次国共内戦に勝利した共産党の毛沢東は、北京にて中華人民共和国の成立を宣言。 中華人民共和国の憲法第一条でも明記されるように、共産党独裁による社会主義国家である。 |
||
昭和24.12 | 1949.12 |
湯川秀樹、「中間子論」でノーベル物理学賞を受賞 湯川は、原子核を安定化させる"強い力"の説明のために新たに想定した媒介粒子(中間子)を論じた中間子論を発表(1935年)。その後、湯川が予言した中間子の特性を持つ粒子がセシル・フランク・パウエルにより実際に発見(1948年)された。これを受けて翌年、湯川はノーベル物理学賞に日本人で初めて受賞した。 |
|
昭和25.6 | 1950.6 |
朝鮮戦争、勃発 北朝鮮軍が38度線を突破して南に侵攻し、朝鮮戦争が勃発。アメリカを中心とする国連軍が南に加勢し、中共が義勇軍を送り込み北朝鮮に加勢して、大規模な戦争に拡大。 |
|
昭和25.8 | 1950.8 |
警察予備隊令、公布
|
和暦 | 西暦 | 日本 | 海外 |
昭和26.7 | 1951.7 |
農業委員会法、制定
|
|
昭和26.9 | 1951.9 |
吉田茂首相、サンフランシスコ講和(平和)条約に署名 9月8日、吉田茂首相はサンフランシスコ講和会議に出席し、サンフランシスコ講和条約に署名。翌年の1952年4月28日に発効。本条約により、日本は主権を回復し、一部領土(沖縄・奄美・小笠原諸島)を除いてアメリカの占領統治が終了。日本の国際社会へ復帰であり、多くの国々と国交を再開した。 |
|
昭和26.9 | 1951.9 |
吉田茂首相、日米安全保障条約を締結 9月8日のサンフランシスコ講和条約と同時に、アメリカと日米安全保障条約を締結。この条約が引き続き日本国内に米軍基地を残すことを認める根拠となっている。また一部領土(沖縄・奄美・小笠原諸島)は引き続きアメリカ統治下に置かれた。翌年の1952年4月28日に発効。 |
|
昭和27.8 | 1952.8 |
日本、IMF及び世界銀行(IBRD)に加盟 日本は翌年からIBRDより戦後復興融資を受ける。 ※日本が世界銀行からの長期融資を完済するのは1990年。 |
|
昭和27.10 | 1952.10 |
農地法、施行
|
|
昭和28.2 | 1953.2 |
2月1日午後2時からNHKより初の地上波のテレビ放送が開始。 |
|
昭和28.7 | 1953.7 |
朝鮮戦争休戦協定に署名
|
|
昭和29.12 | 1954.12 |
1954年12月~1957年6月の31ヵ月間を指す。 |
|
昭和30 |
1955 |
高度経済成長時代へ ※1955年~1973年(石油ショックまで) |
|
昭和30.5 | 1955.5 |
東側諸国、ワルシャワ条約機構(WPO)を発足 NATOに対抗する形で、ソ連を中心とする東側諸国は、軍事同盟であるワルシャワ条約機構(WPO)を発足。 |
|
昭和30.11 | 1955.11 |
自由民主党、結成 日本社会党の台頭に対抗するため、吉田茂の自由党と鳩山一郎の日本民主党が手を組み、自由民主党が誕生。初代総裁は鳩山一郎が就任。以降、与党が自民党、野党第一党が日本社民党という二大政党体制が始まる。いわゆる55年体制の始まり。 |
|
昭和30 | 1955 | GATT加盟 |
和暦 | 西暦 | 日本 | 海外 |
昭和31.10 | 1956.10 |
日ソ共同宣言、署名 大戦末期にシベリアで拘留される旧日本兵の日本送還のために必要な政策であった。 |
|
昭和31 | 1956 |
黒部ダムの建設開始 関西電力は富山県東部の立山町の黒部川に水力発電用ダムの建設を開始。当時、関西地方は電力不足による復興の遅れと慢性的な計画停電が社会問題となっていた。その打開策として過酷な自然に阻まれ何度も失敗を繰り返した黒部峡谷の水力発電以外選択肢はなかった。関西電力は資本金の3倍の総工費(最終的に5倍)を工期7年で臨んだ。黒部ダム完成(1963年)は大阪の電力需要の50%を賄い、関西地方の重工業への転換が可能になった。 |
|
昭和32.7 | 1957.7 |
なべ底不況 1957年7月~1958年6月の12ヵ月間を指す。 |
|
昭和33 | 1958 |
岩戸景気 1958年7月~1961年12月の42ヵ月間を指す。 |
|
昭和33.12 | 1958.12 |
東京タワー、完成
|
|
昭和34.4 | 1959.4 |
皇太子明仁親王殿下、御成婚 4月10日、皇太子明仁親王殿下と正田美智子様が御成婚。御成婚パレードの中継を見ようと、テレビ販売の急増や、ミッチーブームが起こった。 |
|
昭和35.1 | 1960.1 |
岸信介首相、日米安全保障条約の改正 岸信介首相は、1951年締結の日米安全保障条約を改正する条約を締結。この新安保条約は従来の不平等条約を改め、属国だった日本を独立国に近づけ、日米を対等な同盟関係にする狙いがある。日米同盟強化を危惧したソ連は、日本国内の日本社会党や労働組合、学生らを反対運動をするよう仕向け、「安保反対!、安保反対!」と国会を取り囲むなど反安保闘争に発展。 自民党が過半数を占める国会で、新安保条約は承認されたが、混乱を招いた責任を取り岸内閣は総辞職となった。 |
|
昭和35.7 | 1960.7 |
池田勇人、内閣総理大臣に就任 ※第一次池田内閣、発足 岸内閣の総辞職後、池田勇人が内閣総理大臣に就任。第一次池田内閣が発足。9月には「国民所得倍増計画」を打ち出した。4年後に東京オリンピックを開催し、10年間で日本人の所得(GDP)を倍にすることを公約した。 |
|
昭和35.9 | 1960.9 |
池田首相、国民所得倍増計画を発表 国民所得倍増計画は10年間で日本人の所得を倍増する公約。基本的にアメリカのニューディール型の政府主導による経済政策であり、大きな政府で所得を分配しようという政策。太平洋ベルトを中心に道路・鉄道・住宅など大規模な公共投資を行うと同時に、国民皆保険制度、国民皆年金制度を実現して老後の心配をなくし、国民に消費を促した。 |
|
昭和35.9 | 1960.9 |
1960年9月10日よりカラーテレビ放送が開始。アメリカ、キューバに次いで世界で3番目に早くカラーテレビの放送が開始。 |
和暦 | 西暦 | 日本 | 海外 |
昭和36 | 1961 | ||
昭和36.8 | 1961.8 |
東ドイツ、西ドイツとの交流を遮断 冷戦下、東西に分裂していたドイツでは東ドイツから西ドイツへ人口が流出し、東ドイツに深刻な影響を及ぼした。東ドイツは自国の体制を守るために、8月13日に突如として東西ベルリン間の通行を全て遮断する措置を行い、後にコンクリートの壁(ベルリンの壁)が建造された。 |
|
昭和37.11 | 1962.11 |
1962年11月~1964年10月の24ヵ月間を指す。 |
|
昭和37.12 | 1962.12 |
首都高速道路、開通 首都高速道路初の路線として、京橋 - 芝浦 (4.5 km) 開通。均一料金制による料金徴収を実施。 |
|
昭和39.10 | 1964.10 |
東海道新幹線、開通
|
|
昭和39.10 | 1964.10 |
東京オリンピック、開催
|
|
昭和39.11 | 1964.11 |
1964年11月~1965年10月の12ヵ月間を指す。 |
|
昭和40.11 | 1965.11 |
1965年11月~1970年10月の57ヵ月間を指す。 |
|
昭和40.1 | 1965.1 |
竹島密約、締結? 河野一郎と丁一権により、日本と韓国との国交正常化(日韓基本条約の締結)の5ヵ月前に締結されたとされる領土問題に関する密約。「竹島棚上げ合意」とも呼ばれる。日本政府は公式には竹島を疑う余地のない日本固有の領土であり、竹島密約は存在しないとしている。 |
|
昭和40.6 | 1965.6 |
日韓基本条約、締結 6月22日、佐藤栄作内閣は韓国の朴正煕大統領と日韓基本条約を締結。韓国は日本固有の領土の竹島を不法占拠していたが、それでも本条約の締結により国交を樹立させた。 |
|
昭和40.6 | 1965.6 |
日韓請求権協定、締結 日韓基本条約に付随して日韓請求権協定を締結。本協定により日本はかつて朝鮮半島に投資した資本と日本人の財産を放棄し、なおかつ約11億ドルの無償資金と借款の援助を実施。一方で韓国はこの支援を受けるにあたり、国と民間の個人・法人の対日請求権を放棄することに合意。 ※当時の韓国の国家予算が約3.5億ドル。 |
和暦 | 西暦 | 日本 | 海外 |
昭和41 | 1966 | ||
昭和43.6 | 1968.6 |
都市計画法、施行 市街化調整区域は市街化を抑制すべき地域として設定。 |
|
昭和43.6 | 1968.6 |
サンフランシスコ講和条約締結以降も引き続き、アメリカの占領統治下となっていた小笠原諸島が日本本土に復帰。 |
|
昭和43 | 1968 |
日本、国民総生産が世界第2位へ 日本が西ドイツを抜いて国民総生産が世界第2位の経済大国へ。 |
|
昭和44.7 | 1969.7 |
農振法、施行 農業振興地域の整備に関する法律(農振法)が制定され、市街化調整区域、非線引き白地区域において農用地を定め、転用規制の下、農業振興施策を計画的、集中的に実施。 |
EC(欧州諸共同体)、発足 7月1日にブリュッセル条約(1965年4月8日署名)が発効され、EC(欧州諸共同体)が発足。ECは欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)、欧州経済共同体(EEC)、欧州原子力共同体(Euratom)の3組織を統合した総称である。イギリスは創立メンバーに属さず。 |
昭和45 | 1970 |
大阪万博、開催 |
|
昭和45 | 1970 |
70年安保闘争が拡大 安保の自動延長に反対する70年安保闘争が繰り広げられる。 |
和暦 | 西暦 | 日本 | 海外 |
1971.7 |
第一次ニクソン・ショック(ニクソン訪中宣言) 朝鮮戦争以来、対立していた米中関係の和解のためニクソンは訪中宣言をした。ベトナム戦争に疲弊するアメリカは、従来のソ連と中国を同時に相手にする構図から、中国を外すことを企図した。 |
||
1971.8 |
第二次ニクソン・ショック(ドル・ショック) 世界経済規模の拡大やに米国の金保有量の減少により、戦後以来のブレトン・ウッズ体制の維持が困難になってきた。そこでニクソン大統領は米ドルと金の兌換を停止した。 |
||
昭和46.12 | 1971.12 |
米ドル円レートが308円に 1944年以来のブレトン・ウッズ体制は第二次ニクソン・ショックを発端として崩壊し、スミソニアン協定締結により円貨(対米ドル)、は360円から308円まで増価することになった。 |
G10、スミソニアン協定締結 第二次ニクソンショック以降、米国政府は米ドルに対して各国通貨を増価する交渉に入った。G10はスミソニアン博物館でスミソニアン協定を締結し、各国通貨の増価に合意した。 |
昭和47.2 | 1972.2 |
ニクソン、訪中 ニクソン訪中宣言の翌年、ニクソンは北京の毛沢東を電撃訪問。 |
|
昭和47.5 |
1972 .5 |
沖縄では本土復帰への県民の思いが募り、祖国復帰運動が拡大していた。1972年5月15日に沖縄は日本本土復帰を果たした。 |
|
昭和47.6 | 1972.6 |
池田首相の所得倍増計画(1960年)により太平洋ベルトが工業地帯に発展する一方、日本海側(裏日本)の発展が遅れ、地域格差が生じた。田中角栄通産相は、都市過密・地方過疎を防ぐため公共工事を主軸として新幹線・高速道路網を拡大する「日本列島改造論」を発表。世論の圧倒的支持を受け、1972年7月首相就任。 |
|
昭和47.9 | 1972.9 |
日中共同声明、調印 ※自民党内での親中派の誕生 アメリカのニクソン訪中を受けて、田中首相も同年9月に現職の総理大臣として初めて中国に訪問。日中共同声明を調印し、日本は中華人民共和国との国交を樹立した。 田中首相による親中路線への変更は、経済などアメリカ頼みの状態から抜け出したい思惑があった。しかしこの新中路線への移行は自民党内に親米派と親中派の対立を生み出す温床となる。 |
|
昭和48.10 | 1973.10 |
変動相場制へ移行 |
第四次中東戦争勃発(10月6日)に伴い、10月17日にアラブ産油国(OAPAC)が石油価格の引き上げを宣言。アラブ産油諸国はアラブ支援のため敵対するイスラエルとの関係の強い西欧諸国へ石油禁輸措置を実施。 |
昭和49 | 1974 |
狂乱物価 ※1973年10月~1974年2月頃 第4次中東戦争勃発によりアラブ産油国からの原油供給が断たれた。原油国際価格は4倍に急騰し、日本では原油関連製品の品不足の懸念が高まった。対前年CPIは23%上昇。物価上昇の原因は原油高とされるが、変動相場制移行の中で日銀のドル買いや政府の財政拡張による市中の貨幣供給過剰や、買いだめ騒動も原因とされる。 |
|
昭和49 | 1974 |
生産緑地法、制定
|
|
昭和50 | 1975 |
和暦 | 西暦 | 日本 | 海外 |
昭和51.2 | 1976.2 |
ロッキード事件、発覚 全日空がアメリカのロッキード社から旅客機を購入する際、田中がロッキード社から賄賂を受け取った罪に問われた事件。田中の行う独自の資源外交がアメリカの怒りを買い、田中を失脚させたい米政府の意向が働いたという見方が有力。 |
|
1978.5 |
|
||
1978.6 |
宮城県沖地震、発生
|
||
1978.8 |
日中友好平和条約、署名 1987年10月に発効。 |
||
1978.12 |
|
||
1979 | 第二次石油ショック | ||
1980.9 |
イラン・イラク戦争、勃発 ペルシャ人とアラブ人の戦争。 |
和暦 | 西暦 | 日本 | 海外 |
1981 |
菱刈鉱山の発見
|
||
1985 |
プラザ合意 ※真の変動相場制へ移行 先進5ヵ国(G5:アメリカ・日本・イギリス・西ドイツ・フランス)の蔵相・中央銀行会議にて、為替レート安定化に関する合意(プラザ合意)を発表。 |
和暦 | 西暦 | 日本 | 海外 |
1986.4 |
チェルノブイリ原発事故、発生
|
||
1986.7 |
日米半導体協定、締結 アメリカと締結した日本製半導体製品のダンピング(不当廉売)輸出防止を骨子とする協定。1991年の改定で外国製半導体について、日本でのシェアを20%以上にすると明文化。 |
||
1986.12 |
1986年12月~1991年2月の51ヵ月間を指す。 |
||
昭和62.7 | 1987.7 |
竹下登、経世会を結成
|
|
1988.3 |
青函トンネル、開業
|
||
1988.4 |
瀬戸大橋、開業 |
||
昭和64.1 | 1989.1 |
昭和天皇、崩御 1月7日、長らく闘病生活を続けていた昭和天皇が崩御された。当日、直ちに皇太子殿下が御即位され、翌日から元号が平成に改められた。 |