■平安時代
和暦 | 西暦 | 日本 | 海外 |
延暦13 | 794 |
桓武天皇、平安京へ遷都決定 ※奈良時代から平安時代へ 和気清麻呂の建議により桓武天皇は建設途中の長岡京を捨てる決意をする。延暦13年、平安京に遷都。 ※平安京は明治天皇が東京へ居所を移す1000年間帝都となる。 |
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延暦16 | 797 |
桓武天皇、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命 東北地方の蝦夷征伐のため坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命。坂上氏は渡来系の東漢氏(ヤマトノアヤウジ)の一族で、武人として朝廷に仕えていた。 |
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延暦19 | 800 |
和暦 | 西暦 | 日本 | 海外 |
延暦20 | 801 |
蝦夷遠征、胆沢地方を制圧 延暦20年の遠征で胆沢(イサワ)地方(岩手県奥州市)の蝦夷を制圧。蝦夷側の指導者の阿弖流為(アテルイ)と盤具公母礼(イワグノキミモレ)は500人の部下と共に投降。翌年、公卿の決定で指導者2名は死罪。 |
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延暦20 | 801 |
南九州を律令体制の統治下に 南九州の大隅国(オオスミノクニ)・薩摩国を律令体制へ組み込むことに成功。両国の人々は隼人(ハヤト)と呼ばれ、8世紀前半まで朝廷と武力衝突があった。以降、朝廷に朝貢するようになり関係改善が進む。但し律令制度の根幹の班田収授が実施されていなかったが、延暦20年から実施されるようになった。 |
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延暦21 | 802 | 胆沢城の完成、蝦夷征伐の最前線を更新 | |
延暦22 |
803 |
志波城の完成、蝦夷征伐の最前線を更新 | |
延暦24 | 805 |
徳政相論、平安京造営と蝦夷征伐の停止 桓武天皇は財政難を背景に、藤原緒嗣(オツグ)と菅野真道(マミチ)の両名に意見を求め、緒嗣による平安京造営と蝦夷征伐を停止する建議を採用。 |
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延暦24 | 805 |
桓武天皇、崩御 徳政相論の3ヵ月後、桓武天皇が崩御(宝算70歳)。桓武天皇の功績は、平安京遷都、蝦夷平定、日本全国への律令制度の実施。 |
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延暦24 | 805 |
平城天皇、即位 安殿親王が第51代平城天皇に。元来病弱で即位後も体調は優れず、廃太子となった早良(サワラ)親王の怨念ではと噂された。 |
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808 |
嵯峨天皇、即位 即位後も体調の優れない平城天皇は在位3年で譲位し、弟の嵯峨天皇が践祚(センソ)。平城上皇は平城旧京へ隠棲。 |
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弘仁0 | 810 |
弘仁の変 譲位後の平城上皇は健康を取り戻し、政治の舞台への未練からか徐々に政治への関与を深め、「二所の朝廷」と呼ばれる分裂状態に。弘仁(コウニン)元年、平城上皇は隠棲していた平城京に遷都する詔を発し、上皇と天皇の対立は極限に達した。 |
和暦 | 西暦 | 日本 | 海外 |
弘仁2 | 811 |
蝦夷平定、再開 徳政相論で中止されていた蝦夷平定が再開。文室綿麻呂(フンヤノワタマロ)を征夷将軍とする蝦夷遠征が実施。 |
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弘仁5 | 814 |
嵯峨天皇、臣籍降下を実施 ※賜姓源氏の実施 20人の妃を迎え、50人以上の子に恵まれた嵯峨天皇は、弘仁5年から順次、子の中で身分の低い32名に源朝臣(ミナモトノアソミ)の姓を与えて臣籍降下を実施(賜姓源氏(シセイゲンジ))。天皇の子が公卿に列せられることで公卿の構成は大きく変化する。 |
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和暦 | 西暦 | 日本 | 海外 |
821 | |||
天長0 | 824 |
平城上皇、崩御 |
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830 |
和暦 | 西暦 | 日本 | 海外 |
831 | |||
840 |
和暦 | 西暦 | 日本 | 海外 |
841 | |||
承和9 | 842 | 嵯峨上皇、崩御 | |
承和9 | 842 |
承和の変 嵯峨上皇の崩御後に派閥間抗争が発生。橘速勢(タチバナノハヤナリ)と伴健岑(トモノコワミネ)が流罪となった。 |
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貂案 | 858 |
清和天皇、即位 承和の変以降、藤原北家が台頭。満8歳の清和天皇が即位すると、藤原北家出身の藤原良房が太政大臣として天皇を後見。 |
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840 |
和暦 | 西暦 | 日本 | 海外 |
851 | |||
天安2 | 858 |
清和天皇、即位 承和の変以降、藤原北家が台頭。満8歳の清和天皇が即位すると、藤原北家出身の藤原良房が太政大臣として天皇を後見。 |
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860 |
和暦 | 西暦 | 日本 | 海外 |
861 | |||
866 | 応天門の変 | ||
866 |
藤原良房、摂政に就任 藤原良房は清和天皇により、天皇の全権を単独で代理する摂政に就任。皇族以外で初めてであり、良房は清和天皇の外祖父(母の父)に当たる。 ※摂政は天皇が幼少、病気、女帝の時に設置される官職。 |
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870 |
和暦 | 西暦 | 日本 | 海外 |
871 | |||
880 |
和暦 | 西暦 | 日本 | 海外 |
881 | |||
元慶8 | 884 |
光孝天皇、即位 藤原基経の人選により、元慶8年に第58代光孝天皇が即位。光孝天皇は政治に無関心であったため基経に適任とされた。 |
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元慶8 | 884 |
藤原基経、関白に就任 即位した光孝天皇は、55歳であり幼少ではないため摂政を設置することはできなかった。そこで新たに関白という役職が作られ、基経は初の関白として天皇から政治を一任された。 |
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890 |
和暦 | 西暦 | 日本 | 海外 |
1181 | |||
元暦2 文治0 |
1185 |
壇ノ浦の合戦 ※平家の滅亡、安徳天皇の崩御。 元暦2年3月24日、壇ノ浦(山口県下関市)の海上で源平の決戦を迎える。平家の総指揮の平知盛(トモモリ)以下、平氏一門の武将は悉く討ち死に。 |
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元暦2 文治0 |
1185 |
安徳天皇、崩御 壇ノ浦の合戦で、満6歳の安徳天皇は三種の神器諸共、母方祖母の二位尼時子(平清盛の妻)に抱かれて入水。天皇の証である三種の神器は徹底した捜索により、鏡と勾玉は回収されたが、剣は失われた。 |
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1190 |
和暦 | 西暦 | 日本 | 海外 |
1191 | |||
建久3 | 1192 |
後白河上皇、崩御 |